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琉球遺骨返還請求訴訟

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琉球遺骨返還請求訴訟(りゅうきゅういこつへんかんせいきゅうそしょう)は、自身を琉球民族の子孫とする人々が、昭和初期に旧京都帝国大学医学部(現在の京都大学医学部)により沖縄県今帰仁村百按司墓から持ち出された遺骨の返還を求めて行った訴訟[1]琉球遺骨返還訴訟琉球民族遺骨返還訴訟などとも。

背景

戦前、旧帝国大学医学部は人類学の研究目的で日本国内の少数ないし先住民族(アイヌ琉球)などのの遺骨を収集した[1]。今回の訴訟で返還が請求されている遺骨は、昭和初期に金関丈夫らが沖縄県今帰仁村の百按司墓から持ち出したものである[1]

2017年2月16日付けの琉球新報に、1928年から1929年にかけて京都帝大の人類学者が研究のためとして持ち出された少なくとも26体の沖縄の古人骨が返還されないままとなっているとの記事が出た。

百按司墓には500年から600年前の山原地域の有力な按司あるいはその一族が祀られていたとみられる。それをきっかけに、地元住民から京都大学に対し返還運動が起こった。その主張は、金関の『琉球民族誌』によれば、すでに祭祀を行っているものが存在していたことが明らかであるにもかかわらず、彼らの同意も遺族の同意も得ていない、これら遺骨の採取は実際には当時の日本の刑法や民法にも反する盗掘で、当時の日本と琉球の力関係を利用したものであり、しかも採取の一部は関係当局の許可すら得ない内に開始されたというものである[2][3]

これに対し、京都大学側は返還交渉に応じなかった。[3]

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裁判

2018年12月に被葬者の子孫とされる地元住民らが京都大学を相手取り京都地方裁判所に提訴[1]。京都大学は、金関は地元関係者の許可を得ていて盗掘ではないとして返還を拒否した[3]。拒否の背景には他の諸外国から集めた古人骨の返還請求に波及することを怖れたためともいわれる[3]。遺骨の帰属先や原告が「祭祀承継者」に該当するかなどが争点になった[1]

一審判決

2022年4月21日に判決が言い渡され、原告らが他の多数の子孫ないし門中と同じ立場で共同墓において信仰の対象である「祖霊神」を拝んでいる立場に過ぎないことや今帰仁村教育委員会が原告らと異なる立場で返還について被告に対し協議を要請していることなどから、原告らに遺骨を承継させることが今帰仁村ないし共同体構成員の総意であると認めるが困難であるとして、原告らが「祖先の主たる祭祀承継者」に該当しないとして、原告側の請求を棄却した[4]。しかしながら、増森珠美裁判長は「関係機関を交えて返還の是非や受け入れ機関を協議し、解決に向けた環境整備を図るべきだ」と原告側に寄り添う姿勢も見せた[4]。また、「琉球民族として遺骨を墓に安置したいという心情にはくむべきものがある」と付言し[5]、原告側代理人の丹羽雅雄弁護士は「日本民族とは異なるアイデンティティーを持つ民族と認められたことは新しい」と述べた[6]。この判決は国際的にも注目されたという[7]。既に英米独豪では先住民族の遺骨返還が進められていて、国連からはアイヌ・琉球を先住民族と認めて権利を保護するよう勧告が出ていた[7]。2022年7月、龍谷大学教授(専門は経済学だが沖縄出身であることから運動に関わっていた)の松島泰勝は、ジュネーブの国際連合欧州本部で開かれていた「先住民族の権利に関する専門家機構」の会議にこの裁判の実情を報告している[7]

控訴審判決

一審判決に対して原告側は控訴し、2023年9月22日、大阪高等裁判所は一審判決を支持して原告側の控訴を棄却した[8][9]。琉球民族を沖縄地域の先住民であったとみとめたが、原告らには遺骨の所有権が認められず、返還を請求する権利がないとした[7]。ただ、「人類学会の要望書について重きを置くことが相当とは思われない」とし、訴訟で解決するには限界があるとした上で、「京大と原告、教育委員会らで話し合い、移管を含め、適切な解決の道を探ることが望まれる」「遺骨の本来の地への返還は現在世界の潮流になりつつあるといえる」「持ち出された先住民の遺骨はふるさとに帰すべきである」と付言した[9][7]。原告らは、この付言に希望を見出し、上告をせずに、京都大学との話合いでの解決を目指すことにした[7]

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返還

百按司墓遺骨の返還運動を行っていた元原告らは、京都大学と折衝を続けていたものの、取り合われることはなかった[7]

ところが、元原告ら関係者にも知らせることなく、墓に戻さないことや学術資料として持続的に保存することを返還の条件として、2024年12月に京都大学は今帰仁村教育委員会と密かに移管協議書を交わした[10][7]

2025年5月21日に特注コンテナ15箱に納められた遺骨が今帰仁村教育委員会に届けられ、京都大学によると返還された遺骨は26体以上の可能性があるとしている[10]。2025年現在、今帰仁村歴史文化センターの収蔵庫に保管されている[7]

元原告ら関係者からは、今帰仁村に戻ったことに一応の安堵をしつつも、今帰仁村教育委員会が彼ら当事者抜きで勝手に条件をまとめたことについて批判が出ている[7]。元原告らの一部には、条件は有効性のあるものではなく今帰仁村教育委員会に対し本来の風葬に戻すべきとの意見を持つ者もいる[7]。なお、同じ2025年に、大阪の国立民族館からは、かつて骨董品店から購入していた厨子甕(遺骨を風葬後に収めるものだが、購入時には既に遺骨はなかった)が子孫が明確になり、前年2024年の子孫の返還要請の結果、無条件で子孫に返還されている[7]。また、同様な海外オーストラリアからの先住民遺骨返還要求に対しては、2025年に東京大学ばかりか京都大学・国立科学博物館(館長は、学術資料として使えるよう要望をだした時点の日本人類学会の会長である)も共にひっそりと遺骨返還を行っている[7]

脚注

関連項目

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