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百按司墓

沖縄県今帰仁村にある墓 ウィキペディアから

百按司墓
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百按司墓(むむじゃなばか、ももじゃなばか)は沖縄県今帰仁村字運天に所在する墓。崖の中腹の洞窟を利用して作られている[1]。500年から600年前とされるが、16世紀以前の山原地域の有力な按司あるいはその一族の墓と考えられる[1]。1991年に今帰仁村指定文化財[2]。「百按司墓」は「数多くの按司の墓」の意味である[1]

被葬者は北山王とその一族、または第一尚氏系北山監守と推定される[1]

運天古墓群の一部[3]

構造

崖の中腹の自然の洞窟を人工的に拡大し、方形に整えて作られた墓室で[4]、板葺き木槨内に板厨子が安置されている[5]。沖縄の木槨墓の中では浦添ようどれに次いで古い[6]

遺骨を納める木棺はで全体に漆塗りがあり、巴の金紋入り[7]

1882年(明治15年)に家型墓3基の修復が行われ[3]、2004年に残存した唯一の家型墓の修復が行われた[1]

遺骨の持ち出しと返還請求

要約
視点

経緯

昭和初期に京都帝国大学(現京都大学)の人類学者によって百按司墓から遺骨が持ち出された。2017年からその遺骨の返還を求める動きがある。2018年までに研究者団体が返還を求め、今帰仁村教育委員会が京都大学に協議を要請していた[8]

百按司墓から持ち出された遺骨が京都大学と国立台湾大学にあることを2004年に今帰仁村教育委員会が確認し、2017年2月に琉球新報が報じた[9]

調査を経て、当時京都帝国大学助教授だった金関丈夫と、講師だった三宅宗悦が墓からそれぞれ墓から骨を持ち出し、金関が関与した骨は金関が後に赴任した国立台湾大学で、三宅が関与した骨は京都大学で保管されていたことが分かった[10]。金関丈夫は足立文太郎に指示されて琉球調査をした[11]。その以前に墓内に多数の骨があったことを笹森儀助幣原担がそれぞれ1894年(明治27年)、1899年(明治32年)に報告した[12][13]。三宅が収集した骨の一部が百按司墓由来であることを教室の教授清野謙次が1949年に発表した[14]

1990年にはアメリカで研究機関における先住民遺骨の返還が制度化される等、遺骨を扱う研究には世界的に厳しい目が向けられるようになっていった[15]

2017年11月に沖縄県教育委員会と国立台湾大学は返還作業に着手し[16]、2019年3月までに国立台湾大学は36人分の遺骨を沖縄県に返還した[17]。両者は、遺骨を墓に置かず研究資料として保存することで合意していた[18]。遺族らはこれを不服とし、伝統的な風葬を行うことを求めた[19]

琉球民族遺骨返還訴訟

京都大学が遺骨返還をしなかったため[20]、墓を管理する遺族らが2018年2月に京都大学を提訴した[21]。原告は5名で、そのうち2人は第一尚氏の子孫である[10]

原告らは信仰の自由や民族的、宗教的自己決定権が侵害されたと主張している[22]。第一尚氏子孫らは、民法上の祭祀承継者として百按司墓に由来する遺骨への所有権を主張し、遺骨を保管している京都大学に返還を求めた[23]

2019年7月、日本人類学会は、アイヌ民族の人骨および祭祀継承者が存在する人骨を除いて、「古人骨は学術的価値を持つ国民共有の文化財として、将来にわたり保存継承され研究に供与されるべきである」「保管機関は地方公共団体との協議により検討すること」「地方公共団体への返還にあたっては研究資料としての保存継承と研究機会の継続的提供を合意に含めること」を京都大学に要望した[24][25][15]。原告団はこれに反発した[25]

2022年4月の大阪地方裁判所による一審判決では、1920年代から30年代にかけて百按司墓から研究者が複数の遺骨を持ち出したこと、原告の一部が琉球王家の子孫で墓へ参拝したことがあることを認めた[26]。一方で「子孫は他にも多数いて、原告らは『祭祀を主宰すべき者』とは認められない」として返還請求権もないと判断、また、遺骨は「学術的、文化的価値を有する」として京都大学が遺骨を保管することを認め、原告の請求を棄却した[15][26]。この判決は国際的にも注目されたという[15]。既に英米独豪では先住民族の遺骨返還が進められていて、国連からはアイヌ・琉球を先住民族と認めて権利を保護するよう勧告が出ていた[15]。2022年7月、龍谷大学教授(専門は経済学だが沖縄出身であることから運動していた)の松島泰勝は、ジュネーブの国際連合欧州本部で開かれていた「先住民族の権利に関する専門家機構」の会議にこの裁判の実情を報告している[15]

原告側は控訴し、2023年9月、大阪高等裁判所は一審判決を支持して原告側の控訴を棄却した[26][27]。琉球民族を沖縄地域の先住民であったとみとめたが、原告らには遺骨の所有権が認められず、返還を請求する権利がないとした[15]

ただ裁判長が付言を行っており、二審の大島真一裁判長は「人類学会の要望書について重きを置くことが相当とは思われない」とし、訴訟で解決するには限界があるとした上で、「京大と原告、教育委員会らで話し合い、移管を含め、適切な解決の道を探ることが望まれる」「遺骨の本来の地への返還は現在世界の潮流になりつつあるといえる」「持ち出された先住民の遺骨はふるさとに帰すべきである」と付言した[27][15]。原告らは、この付言に希望を見出し、上告をせずに、京都大学との話合いでの解決を目指すことにした[15]

返還

百按司墓遺骨の返還運動を行っていた元原告らは、京都大学と折衝を続けていたものの、取り合われることはなかった[15]

ところが、元原告ら関係者にも知らせることなく、墓に戻さないことや学術資料として持続的に保存することを返還の条件として、2024年12月に京都大学は今帰仁村教育委員会と密かに移管協議書を交わした[28][15]。いずれ国際的な非難や圧力に晒されることを怖れ、日本人類学会の要望にもある資料として使う権利を確保しておこうとする措置だったとみられる。同様な海外オーストラリアからの先住民遺骨返還要求に対しては、2025年に東京大学ばかりか京都大学・国立科学博物館(館長は、学術資料として使えるよう要望をだした時点の日本人類学会の会長である)も共にひっそりと遺骨返還を行っている[15]

2025年5月21日に特注コンテナ15箱に納められた遺骨が今帰仁村教育委員会に届けられ、京都大学によると返還された遺骨は26体以上の可能性があるとしている[28]。2025年現在、今帰仁村歴史文化センターの収蔵庫に保管されている[15]

元原告ら関係者からは、今帰仁村に戻ったことに一応の安堵をしつつも、今帰仁村教育委員会が彼ら当事者抜きで勝手に条件をまとめたことについて批判が出ている[15]。元原告らの一部には、条件は有効性のあるものではなく今帰仁村教育委員会に対し本来の風葬に戻すべきだとの意見を呈する者もいる[15]。なお、同じ2025年に、大阪の国立民族館からは、かつて骨董品店から購入していた沖縄の厨子甕(風葬後に遺骨を収めるもの。もちろん購入時には遺骨は既になかった)の子孫が明確になり、前年2024年の子孫の返還要請の結果、無条件で子孫に返還されている[15]。また、東京大学にもやはり沖縄から人類学者の鳥居龍蔵が持ち帰ったとされる古人骨が伝わり、百按司墓遺骨の返還運動にも関わった一部メンバーが、こちらは東京大学から有志も現れてその協力も得ながら、2025年現在、方向性はまだ見えないものの大学側との間で協議を行っている[15]

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出典

外部リンク

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