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生長の家学生会全国総連合
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生長の家学生会全国総連合(せいちょうのいえがくせいかいぜんこくそうれんごう)は、日本の民族派学生組織[1]。1966年(昭和41)5月1日に結成された[2][3]。現在は生長の家青年会の直轄組織として、地球環境問題や生命倫理運動に取り組んでいる。略称は生学連(せいがくれん)。
概要
要約
視点
全国学協結成まで
生長の家では、戦後になり生長の家学徒連盟が結成され、高校生や大学生の信徒が組織化されていた。この生長の家学徒連盟がのちに単位宗教法人格を有し、生長の家青年会となる。その後、各地の生長の家の高校生信徒が結成した「理想世界の集い」を束ねる組織として、1960年(昭和35)5月1日に生長の家高校生連盟(生高連)が結成された[4]。
1966年(昭和41)5月1日、生長の家学生会全国総連合(生学連)は大学に進んだ生高連信徒らによって結成された。生長の家の真理を広めることを目的に結成されたが、教団が優生保護法反対運動を展開するにしたがって政治色が強くなり、のちに教団内部で「飛田給派」という一大派閥を作って「本部派」と対立するようになった[5]。
→詳細は「生長の家本流運動」を参照
当初の生学連は、椛島有三(長崎大学)らが1969年(昭和44)5月に立ち上げた全国学生自治体連絡協議会(全国学協)にも参加するなど、保守色が強い組織であった。また、全国学協の委員長には生学連出身の鈴木邦男(早稲田大学)が、書記長には安東巌(長崎大学)が選出されるなど、全国学協の結成に主導的な役割を果たしている。
もっとも、生学連と全国学協が共闘関係にあったといえども当然両者は別組織で、全国学協結成時の生学連委員長は、後に生長の家青年会会長となる森田征史[6]が務めている(後に明星大学教授となる高橋史朗(当時の姓は土橋)も生学連の委員長を務めた[3][7])。
全国学協の分裂と日青協との関係強化
全国学協成立後、運動は分裂を含むものとなった。生学連OBも参加して学協の社会人組織である日本青年協議会(日青協)が結成されていたが、やがて日青協と学協執行部が運動路線をめぐって対立するようになった。そして遂に1973年(昭和48)、学協執行部は、社会人組織である日青協から独立を宣言するのである。
これに対し、全国学協内の「親日青協派」は新たな学生戦線として反憲法学生委員会全国連合(反憲学連)を結成した。すると、生学連もそれと協力して活動を行うようになった[8]。
だが、その活動に対し「右翼的」として、教団内の一部(本部勤務者が多かったので便宜的に「本部派」と呼ぶ)から疑問の声が挙がり始める。教団では生学連出身の幹部を名指しで非難する怪文書が広まった[5]。また、生長の家2代目総裁であった谷口清超の息子の谷口雅宣(のちの生長の家3代目総裁)が大学進学後も生学連へ参加しない[9]などの事態となった。
しかし、以上のような教団の一部(「本部派」)からの批判があっても、生学連の活動自体は当時の教団の活動から突出したものでは決してなかった。当時、谷口雅春生長の家初代総裁は、「建国記念の制定」「靖国神社の国家護持」「元号法の制定」「憲法改正」等を主張しており、これを受けて教団全体が強力に政治運動を推進していたのである。1964年(昭和39)には、政治運動に特化した組織である生長の家政治連合(生政連)も結成され、国会議員や地方議員を多数議会へ送っていた[10]。
このような中、生学連と生政連との関係も深まった。生政連の組織内候補であった元参議院議員の村上正邦は「彼らはいつ爆発するかわからない若いエネルギーをたくさん蓄えていました」と述べている[11]。
政治活動からの撤退から現在へ
生学連OBらの「飛田給派」は、1982年(昭和57)には「本部派」の教団理事長を事実上の更迭に追い込み[5]、生学連の政治活動も盛んにおこなわれていた。
しかし、その翌年には巻き返しにあい、同1983年(昭和58)には生長の家政治連合は活動を停止した。また、1985年(昭和60)には生学連の中央執行委員会が規約改正により解体、各地の教区青年会の生学連対策部が各大学の生長の家学生会を直接指導する形となった。同時に、「飛田給派」の拠点であった「生長の家青年局」も解体されたため、生学連はこれまでのように政治運動のための指導を受けることはなくなった。
1985年(昭和60)、谷口雅春初代総裁の逝去により、「本部派」は教団運営のほぼ全権を掌握、生長の家教団自体が政治運動からほぼ全面的に撤退するに至った。「飛田給派」の多くは教団の方針を批判して離れ、「生長の家本流運動」としていくつかの別団体を結成した[12]。
尚、現在でも、生長の家青年会の会則中には、生学連の存在は明記されている[13]。2015年以降は、「生長の家青年会ヴィジョン」が制定され、「個人の救済」と「新しい文明の構築」を目的とした活動を行うようになった[14]。
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他の団体との関係
生長の家青年会・生長の家高校生連盟
前述のとおり、現在では生学連は全国組織としては事実上解体されており、単位組織である生長の家学生会が各地の教区青年会の生学連対策部の指導を受けて活動している。生長の家高校生連盟(生高連)も同様であり、また、生学連には生高連のOBが多いとされている。
ただし平成に、3代目生長の家総裁となる谷口雅宣は高校時代には生高連に所属していたが、生学連には所属していなかったことでもわかるように、青年会・生高連・生学連の三社が必ずしも一体の組織として活動しているわけではない。
全国学生自治体連絡協議会
全国学生自治体連絡協議会の初代委員長の鈴木邦男と初代書記長の安東巌は、ともに生学連に所属していた。しかし、のちに彼らは対立し、一か月もたたずに鈴木邦男は全国学生自治体連絡協議会から脱退した。[15]
日本協議会・日本青年協議会
日本青年協議会には、かつては生学連のOBも多数所属していた。しかし現在の生学連が、日本青年協議会と協力関係にあるという情報はない。
一方で同会は、谷口雅春先生に学ぶ会や新教育者連盟などの生長の家教団を離脱した「生長の家本流運動」系の組織とは協力して運動を推進している。
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脚注
参考文献
関連項目
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