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田中寿美子
日本の政治家・評論家 ウィキペディアから
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田中 寿美子(たなか すみこ、1909年(明治42年)12月20日 - 1995年(平成7年)3月15日)は、日本の政治家、婦人問題評論家、翻訳家。日本社会党中央執行副委員長、日本婦人会議(現・I女性会議)議長、婦人問題懇話会代表[3]などを歴任。
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来歴

兵庫県神戸市生まれ[1]。高等女学校教師などを経て、1948年、労働省婦人少年局に入省。同僚には森山真弓、赤松良子らがいた。1950年、婦人課長に就任。1955年に退職し、日本社会党に入党した。婦人問題の評論家として活動。
1960年11月の衆院選で夫の田中稔男が次点で落選。
1962年4月14日、安保闘争に関わった女性たちによって「日本婦人会議」が設立され[6]、議長には田中、松岡洋子、岸輝子、深尾須磨子、羽仁説子、高田なほ子、野口政子、田所八重子ら8人が就任した[7]。
同日、山川菊栄らと「婦人問題懇話会」(1984年に「日本婦人問題懇話会」に改称)を設立[8][9]。初代代表を山川が務めたのち、田中が後を継いだ[3]。
1963年1月、社会党から参院選全国区への出馬要請を受ける。同年7月に出馬を決心[4]。同年11月の衆院選で社会党は旧福岡3区に元職の田中稔男と新人の細谷治嘉を擁立。細谷は初当選を果たし、稔男はまたも落選した。
1965年、第7回参議院議員通常選挙全国区に社会党から初出馬し初当選。以後連続3回当選。婦人局長を歴任。この間、「国連婦人の10年推進議員連盟」や「戦争への道を許さない女性連絡会」、「中間施設を考える会」などを設立。「男女雇用平等法案」を国会に提出するなど社会党の女性政策確立に大きく貢献した。
1980年、飛鳥田一雄委員長の下で党中央執行副委員長に就任。1983年、政界を引退。
引退後は、評論家として活動し男女雇用機会均等法成立に尽力[要出典]、フェミニストでもあった。マーガレット・ミード『女性と男性』を邦訳した他、女性学研究者として「近代日本の女性像」や「女性解放の思想と行動」の編著、「パラシュートと母系制」「ジュスマ・マンシェルさん物語」などの著書も出版している。
1995年3月15日、死去。
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著書
- 『世界女性解放史』(共著、中央公論社) 1957
- 『働く女性の生きかた - 職業と結婚をめぐって』(中央公論社) 1957
- 『若い女性の生きかた』(社会思想研究会出版部、現代教養文庫) 1959
- 『ビジネス・マダム - 共かせぎ百科』(読売新聞社) 1963
- 『新しい家庭の創造 - ソビエトの婦人と生活』(岩波新書) 1964
- 『二人のための人生論 - 女として忘れてならないこと』(大和書房) 1968
- 『女性にとって生きがいとは何か』(文化出版局) 1970
- 『自立する女性へ - 私の生涯から』(国土社) 1979
- 『パラシュートと母系制 - 回想のわが戦後史』(ドメス出版) 1986
- 『ジュスマ・マンシェルさん物語 - インドネシア母系社会に生きた日本人女性』(共著、ドメス出版) 1991
編著
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翻訳
脚注
参考文献
外部リンク
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