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田沼志ん
日本の教育者(1877-1970) ウィキペディアから
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田沼 志ん(たぬま しん、1877年7月3日-1970年1月3日)は日本の教育者[1]。横浜高等女学校(現在の横浜学園高等学校)の校長をつとめた[1]。
生涯
1877年(明治10年)7月2日[2][注 1]、実業家・県会議員の田沼太右衛門、なる子の一男六女の長女として[1][2]横浜市中区尾上町に生まれた[1][3]。1892年(明治25年)横浜小学校高等科を卒業した[2][4]。
卒業後は家庭教師に学び[1]、小原日出子、与謝野鉄幹・晶子夫妻、山下陸奥に和歌を[2]、挿花を千松軒一秀に学んだ[4]。
兄が早逝したため、角田勝之助と結婚して婿養子とした[1][4]。
父の太右衛門は県立女学校の設立を神奈川県議会に訴えたが否決され[1]、私財を投じて1899年に横浜高等女学校を日ノ出町に創立した[2][注 2]。1906年に元町に移転した。志んも学校運営に参画し[3]、関東大震災で校舎が全焼したときには父と共に再建資金を調達した[1]。
1929年(昭和4年)に生徒監となり、父の死去を受けて同年11月に校長となった[4][5]。夫の勝之助は理事長となった[1]。「女らしくあれ」を教育方針として掲げ[1]、県内でも有数の女子学園に発展させた[3]。横浜大空襲で校舎が焼失した際には移転先を探しまわった[1]。1947年に横浜市岡村町の土地を手に入れると、わらじ履きで土運びを率先した[1]。
1951年(昭和26年)、校長職を長男の要人に譲り、名誉校長となった[5]。
晩年、妹(太右衛門の六女)のふくとともに神奈川県内に初めてガールスカウトを導入し[2]、次世代を担う青少年の育成のために募金や協力者を求めて活動した[1]。ふくはガールスカウト横浜支部の生みの親として知られる[1]。
1970年1月3日没[2][注 3]。墓所は横浜市中区相沢墓地[1][2]。
受賞歴
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関連文献
- 『学苑 横浜学園創立60年記念号』横浜学園 1959
- 『横浜学園創立八十年記念誌』横浜学園 1980
- 『創立九十年記念誌』横浜学園 1990
- 『ゆかりの白梅 横浜学園創立100年史』横浜学園 2000
脚注
外部リンク
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