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白川資長

日本の政治家、華族 ウィキペディアから

白川資長
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白川 資長(しらかわ すけなが、1871年2月17日明治3年12月28日[1]〉 - 1959年昭和34年〉6月9日[1][2])は、大正から昭和期の政治家華族貴族院子爵議員

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白川資長

経歴

神祇大副白川資訓の長男として生まれる[1][3]1906年(明治39年)12月24日、父の死去に伴い子爵を襲爵した[4]1905年(明治38年)[注 1]東京外国語学校仏語科を卒業し、さらに東京帝国大学文科大学を修了した[2][3][5]

1914年(大正3年)以降、名誉掌典、神社調査会委員、神社制度調査会委員などを務めた[2][3][5]。また、日本精神研修会長となり、息吹長世の行法を指導した[5]

1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[6][7]研究会に所属して活動し1939年(昭和14年)7月9月まで在任した[2]

戦後は神社本庁参与を務めた[5]。子女に恵まれず、養子縁組も1954年に解消したため[1]、彼の死と共に白川伯王家は断絶した。

栄典

親族

  • 父:白川資訓(1841 - 1906)- 旧名・資訓王。大掌典
  • 母:白川幾子(1848 - 1906)- 三条西季知の五女[1]
  • 妻:リウ(1893 - 1979)- 飯野盛容の娘。
  • 養子
    • 男子:上野久雄(1927 - ?)- 上野正雄の四男。養子になり白川姓を名乗るものの、1954年白川家を離籍し、上野家に復籍した[1]

脚注

参考文献

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