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白瑠璃碗 (正倉院宝物)

正倉院宝物の一つ ウィキペディアから

白瑠璃碗 (正倉院宝物)
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白瑠璃碗(はくるりのわん、英語: Glass Bowl[4])は、正倉院宝物の一つの、ガラス器。6世紀頃のサーサーン朝で制作された、ササンガラスの一種であると推定されている。伝来時期やルートは諸説あるが、遅くとも江戸時代までには正倉院に保管されたとされている。類似品として、現在東京国立博物館が所蔵している高屋築山古墳から出土した白瑠璃碗が有名である。

概要 白瑠璃碗, 材質 ...

形態

正倉院には数万個におよぶガラスが保管されているが、そのうち器物として完成しているのはわずか六点である[5]。それが、白瑠璃碗、白瑠璃瓶(はくるりのへい)、瑠璃坏紺瑠璃壺緑瑠璃十二曲長坏白瑠璃高坏である[5]。その中でも、白瑠璃碗は最も有名である[6]

白瑠璃碗の色は、透明だが少し褐色を帯びている(淡褐色と形容されていることが多い。)[2]。この着色は、をはじめとする不純物の混入によるものである[7]。成分調査の結果、アルカリ石灰ガラスによってつくられたものと判明しており[注釈 1]、不純物や気泡が少ない上質なガラス製と評価されている[9]。白瑠璃碗にはおそらく透輝石とみられる針状の結晶が存在し、マグネシウムカルシウムを含んでいる証拠とされる[10]。類似品はガラス表面の銀化が進んでいるものがほとんどで、当時の透明度を残しているのは珍しいことである[11]

底面に大きな切子が1つ存在し、その側面には一番下の段のみは7つの切子[注釈 2]、その上の4段については各段18つの切子が施されている[2]。この切子は、実際は円形の切子であるが、それぞれが接しているため六角形が連続する亀甲紋のように見える[14][9][15]

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来歴

要約
視点

制作と伝来

白瑠璃碗との類似品は中近東や中央アジア、中国などさまざまな遺跡から発掘されている[9]。「正倉院のガラス」では、安閑天皇の在位ころ(5世紀)に日本や朝鮮半島、中国では作られているはずがないとして、白瑠璃碗の制作地を「オリエント方面」と広く曖昧な表現にとどめている[16][17]。白瑠璃碗も類似品と同じく、3世紀から7世紀ころ西アジアに存在したサーサーン朝において制作された、ササンガラスの一種であるとほぼ確実視されている[注釈 3][18][6]。その具体的な生産地は諸説あるが、現イランギーラーン州や現イラククテシフォン(サーサーン朝の都)、キシュなどが挙げられており[注釈 4]、やはり当時のサーサーン朝領域ないしその文化圏である[16]。前述の通り、伝安閑陵古墳出土白瑠璃碗と酷似しているために、同じ工房で製造されたのではという説もある[9]

白瑠璃碗は「型吹き技法」を用いて制作されている。高温で溶かしたガラスを半球状の型にあてながら、吹き竿で吹き膨らまして整形している[11]。実際に、白瑠璃碗の底部など表面には型を当てたことで生じたとされるざらついた地が残っている[10][11]。こうして成形されたのちに、回転する砥石、ないし鉄や石製の円盤に研磨剤をつけたものを用いて、切子が形成されたとされている[14][15]。この白瑠璃碗を復元した由水常雄によると、「正倉院ガラス器のなかで、白瑠璃碗は、思いのほか、早く、簡単に作ることができた。その理由は、白瑠璃碗がガラスという素材にもっとも素直な作り方をして碗を作り、もっとも単純なカット加工法を使って仕上げている状況が分かったからであった」という[21]

伝安閑陵古墳出土白瑠璃碗が安閑天皇陵(高屋築山古墳)から出土したということを信じると、安閑天皇の崩御は6世紀前半頃であるため、遅くとも6世紀頃には制作され、6世紀の中ごろまでには日本に伝来しているということになる[9]。そのため、正倉院宝物の白瑠璃碗も同時期に制作されたという説もある[16][注釈 5]。大型放射光施設・SPring-8を用いた研究によれば、サーサーン朝時代に作られたとされるガラス器は、その成分から前期(3,4世紀)と後期(6,7世紀)に大別できることがわかっている[16]。そのうち白瑠璃碗に類似する円形切子碗は、後期の作品に分類でき、白瑠璃碗が6世紀頃に制作された根拠の一つとして挙げられている[16]

伝来ルートや時期は諸説ある[16]。伝安閑陵古墳出土白瑠璃碗と同様に、6世紀ごろに日本に伝わって、しばらく世に出回ったのち[注釈 6]、東大寺に献納されたという説や[9][17]奈良時代になってから(遣唐使の章来賓(請来品)として)日本に伝来したという説がある[9][11]

正倉院宝物として

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白瑠璃碗が納められている正倉院

白瑠璃碗は正倉院中倉に納められている。中倉は、造東大寺司もしくは東大寺が保存管理していた宝物を収蔵しているため、北倉の宝物に比べてその収蔵の経緯は明らかでないことが多い[5]。さらに、中倉や南倉は平安時代の末まで点検の記録が残っておらず、奈良時代・平安時代のある時点で収蔵されていたかを特定することですら難しい[5]

「正倉院のガラス」によれば、瑠璃坏は大仏開眼供養会が行われた天平勝宝4年(752年)のものとみて差支えがないという見解が示されている[23][24]。しかし、光明皇后による5度の奉献の目録である「東大寺献物帳」をはじめ、奈良時代・平安時代の目録にはガラス製品が一つも含まれていないことが、由水常雄によって指摘されている[25]

目録にガラス器が登場する最初の例は、建久4年(1193年)の目録である[26]。この目録の中では、「瑠璃坏」をはじめとする24個のガラス器の名が記されているが、白瑠璃碗と思しきものは記録されていない[26]

おそらく白瑠璃碗の初出とされるのは、慶長17年(1612年)の記録で、「びいどろの薬すり」という表記で記録されている[27]。この薬すりは、北倉に存在していた[27]。さらに、寛文6年(1666年)の目録では、南倉の所蔵として「ヒイトロ茶碗」の記録が残っている[27]。元禄5年(1692年)に、東大寺の大仏が再建され開眼供養が行われ、翌6年には宝物の点検が行われるとともに、目録が作成されており、この目録には中倉所蔵の「ヒイトロの茶碗」として白瑠璃碗の存在が明確に確認される[28]。この3つの記録に残る「ビイドロの器」は、すべて「ね」の合文(符号)の長持に納められていたものであり、所蔵場所は異なっているが、おなじ白瑠璃碗と推定されている[27]

昭和25年には、類似品であった安閑陵出土の白瑠璃碗が再び発見された[29]

昭和15年に皇紀2600年を記念して、東京帝室博物館(現・東京国立博物館)で初めて展示された[30]奈良国立博物館で開催される「正倉院展」では、第1回(昭和21年)[31]、第17回(昭和39年)[32]、第28回(昭和50年)[33]、第42回(平成2年)[34]、第47回(平成7年)[35]、第60回(平成20年)[36]の6回、出陳された。

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類似品の存在

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安閑天皇陵から発掘された白瑠璃碗を真上から撮影した写真。底面の大きな切子の周辺には、7つの切子が存在している。他の円形切子碗も同様に7つの切子が施されている。

白瑠璃碗と同じような円形切子碗は、日本のみならず広範囲から発掘されている[12]。発掘された場所は、主に4世紀から6世紀ころの遺跡が多い[37]。その数は、発見されているだけでも数百規模、未発見のものも加えれば千を超えるという[12]。それらには、すべて底面に7つの切子がある、器形がほとんど同じなどの特徴があり、由水常雄はササン朝が厳しい品質管理を行ったうえで生産し、その貿易収支も帝国の財政を支えていたと推定している[38]

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安閑天皇陵から発掘された白瑠璃碗

日本での代表的な例は、沖ノ島出土のガラス碗や上賀茂神社出土のガラス片などが挙げられる[39]。また、安閑天皇陵(高屋築山古墳)から出土した白瑠璃碗は、サイズやデザインがほぼおなじである[40]。正倉院の白瑠璃碗が亀甲文様(にみえる)のに対して、安閑天皇陵から出土した白瑠璃碗は円形文様であり[41]、また正倉院宝物の白瑠璃碗の方が少々重い(安閑陵出土は409.2グラム)[42]、などの違いがある。

白瑠璃碗を扱った作品

脚注

参考文献

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