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皇甫抗
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皇甫 抗(ファンボ・ハン、朝鮮語: 황보항、生没年不詳)は、高麗の文人、官僚。江左七賢(朝鮮における竹林の七賢)の一人[1]。
主要事項
生年は不詳である。1176年に科挙に合格し[2]、その後忠州(現: 忠清北道忠州市)で書記を務めた[3]。特に林椿との交流が深く[4]、皇甫抗が科挙に合格すると林椿に祝われ、林椿が病床に伏した際は皇甫抗が見舞いに訪れた[5]。林椿は皇甫抗を「学識が広く意味は変わらず記憶力が強く文章が豪放で、正直さは琴の糸のようで清廉さは甲の中の鏡のようだった」と評価した[6]。また、「補閑集」にも詩一首が伝えられ[7]、楽章にも長けていたとされる[8]。そのほか、李仁老や呉世才、咸淳や李湛之、そして趙通らと付き合い、詩作と酒を嗜んだ。没年は不詳である。
参考資料
- 『高麗史』
- 『西河集』
- 『補閑集』
- 『東国李相国集』
脚注
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