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目黒貰い子殺人事件

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目黒貰い子殺人事件とは、東京目黒在住の川俣初太郎(33歳)によって引き起こされた貰い子殺人事件の一つである。

事件

要約
視点
概要 川俣初太郎, 個人情報 ...

事件の発覚・捜査

1933年3月1日午前9時ごろ[1]バタ屋のYは富川町にてゴミ箱を漁り歩いていたところ風呂敷包みを発見した、掴みあげようとしたとたん乳児の全裸死体が転がり落ちた[1][7]、Yは慌てて業平橋の交番へ駆け込み、警視庁から捜査課長数名の刑事が現場へたどり着いた[7]、死体は生後20日程の乳児で人絹の小児用兵児帯が頭部に二重に巻きついており、背中や胸部に踏みつけられたような外傷があり、無惨な姿であった[7]扇橋署に捜査本部が設置され刑事達の意見は生活苦から自分の子供を殺害した貰い子殺人かの2つに別れた[7][8]。辺り一帯は貧民階級の住むドヤ街であり、女房に淫売させる男もいるため乳児を捨てることは珍しくないが、自分の子供を踏みつけるという行為に及ぶ親は滅多にいないため、貰い子殺人であると考えられた[8]。刑事達はそれぞれの意見に従って行動に移ることとなった[8]、木内と遠藤の両刑事は新聞の広告欄を見て、子供さしあげたしの広告主を調べあげた[8]、捜査9日目の午後、2人は本所区石原町四丁目の伊藤産院を尋ねた、産院主の伊藤のぶは1932年12月と1933年2月に生まれた乳児を小杉儀一という鈴木酒店の外交員に差し上げたと話した[9]、養育費として1932年は30円、1933年には20年をつけたと言った[9]、2人は鈴木酒店のある神田和泉町へと向かったが、鈴木という酒店は見つからず、交番で居住者名簿を見たところ、同一番地に遠山リツ方、鈴木もとの名前を見つけ、直ちにその産婆尋ねた[10]、尋ねたところ小杉という人物は1度産院を尋ねたとの事[10]、この報告を受けた捜査本部は複数の産院を調査したところ川俣清志田中正介という不審な人物2名上がった[10]、川俣は3人の乳児を貰い受け、田中は3ヶ月の間に9人の乳児を貰い受け、合計130円の養育費を得ていた[10]。そして小杉と川俣と田中はいずれも同じ人相であり、年も30歳前後のインテリ風の外見であったとのこと[10][1]。鑑識課にて前科者のカードを調べるうちに川俣初太郎の名を発見した[4]、川俣は栃木県安蘇郡佐野町生まれ[1]、前科一犯、1901年生まれであり、1933年には31歳となっているため、産婆達が証言する30歳前後という年齢と一致した[4]、川俣の前科は1928年9月23日に養育費目当てに産婆・志田キミから貰い子を受け、殺害し、殺人罪死体遺棄罪詐欺罪の罪に問われ懲役4年に処されたが、恩赦減刑により懲役3年に減刑された[5]、1931年6月9月に宇都宮刑務所を出所[5][4]、その後司法保護事業日本教化会の保護を受けていたが、その後は不明となっていた[4]、前科者カードにあった写真は複写され、刑事に配布され、それを見た産婆達はこの人物に間違いないと伝えた[4]

川俣の逮捕まで

数日後、木内と遠藤は市内のドヤ街を歩き回り、乳児の遺体が発見された富川町に近い本所区吾妻橋三丁目、簡易旅館喜久屋本店まで足を運んだ[4]、木内と遠藤は宿泊者名簿を見て「栃木県佐野郡高砂一二八、田中正次郎(27)」という文字が目についた[11]、2人は旅館の女将に川俣の写真を女将に見せたところ、相違なかった[11]、田中はやがて帰ってくるころだというので、遠藤はその隣室で待機し、木内は川俣発見の報を本部に知らせ、間もなく応援が駆けつけた[11]、8時を過ぎた頃に川俣の部屋に電灯が灯り、の隙間から覗いたところ、川俣古びた茶色の外套を着て、大きめの風呂敷包み抱えたまま胡座をかいた、川俣が風呂敷包みを開けたところ、中には乳児が入っていた、川俣が乳児を絞殺しようとしたところを、3人の刑事は飛びかかり、その騒ぎに驚いた乳児は泣き始めた、川俣は逮捕され[2] 、旅館内で殺害しようとした生後11ヶ月ぐらいの女児を保護し、小包にした生後2ヶ月ぐらいの女児の絞殺体と死体遺棄に使用したシャベル1本を押収した[1]

川俣の自白

主な殺人被害者

さらに見る 事件発生日, 被害者 ...

預けられた乳児

さらに見る 日, 乳児 ...

当初は2件の貰い子殺しを自供したが、小杉・川俣・田中と名乗り二十数人の乳児を受け取っている事が確認されているため、証拠を突きつけたところ、初めは養育費だけを受け取り、駅の前や路上で氏名不詳の者に渡したと言い張ったが、厳しく追及され12日に26人を殺害した事を認めた[6][2]、川俣が求めていたのは養育費のみであり、子供はすぐに絞殺し、衣類を剥ぎ取って穴に埋めたりした[2]、その後杉並区西田町の田端神社裏の雑木林に埋めたと陳述し、刑事達は川俣に案内させ10数か所を掘ったが遺体は見つからなかった[6]

遺体の発見・現場検証

その後西郷山の雑木林に埋めたと陳述したため、西郷山の雑木林を捜査したところ、一回目の捜査で男児8人、女児6人、性別不明2人の合計16人の遺体が発見され[12]、2回目で8人の遺体が発見され、合計24人分の遺体が発見された[2]、そして杉並区成宗からも乳に2人の遺体が発見され被害者数は合計26人となった[2]、また川俣自身は27人の殺人を自供している[2]、川俣は現場検証の際にはキャラメルをしゃぶりながら「ここじゃない」「あそこだ」「そんな掘り方をしてはいけないよ」などと言って警察に指示をしていた[13]、遺体はいずれも窒息死であり、中には踏み潰したり蹴った跡が残っている遺体もあった[2]、その後子供を預けた親が半狂乱で警視庁へ押しかけた[2]

裁判・死刑執行まで

最初は川俣は「おれは仕事で子供を殺した。それの何が悪い」「殺人がうまくいくよう観音様へ毎日お祈りしていた」「俺は悪くない。俺を見捨てた世間が悪いんだ」とふてぶてしい態度を取っていたが、後に改心し自分の犯した罪を反省することが多くなっていった[13]、特に、栃木に住む郷里の母親には「最後まで親不孝をしてしまい大変申し訳ない」「私はあの世で殺した子供たちの霊を守るとともに今度こそ真人間になってお母さんに孝行します」といった内容の、自らが犯した罪を憎む手記が残されている[13]。裁判では「罪滅ぼしに早く処刑が願いたい[14]」と発言し悔悟の涙を流した、1935年9月30日、一審で川俣に死刑判決が言い渡され[15][16]、1934年9月23日、市ヶ谷刑務所絞首刑が執行された(35歳没)[2][13]。事件は全国の新聞で報道され稀代の殺人鬼として恐れられた[2]

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川俣の生い立ち

川俣は栃木県安蘇郡佐野町で生まれた[4][13]、地元の高等学校を卒業し、英語に興味を持っていたため1919年に上京し、当時神田町にあった外国語学校で英語スペイン語を学び優秀な成績で卒業した[13]、その後はインドネシアへ渡り、貿易の仕事に就いていが商売が上手くいかず1年ほどで帰国した[13]、1924年には再び勉学の道を志し、早稲田大学へ入学したが、学費が払えずに中退[13]、その後は郷里である栃木に帰り、1度結婚したものの、仕事ができず、酒浸りの毎日が続いた[13]、しばらくして川俣は貰い子ビジネスに興味を持ち、目黒貰い子殺人事件のきっかけとなった。

脚注

外部リンク

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