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東京都新宿区にある私立大学 ウィキペディアから
早稲田大学(わせだだいがく、英語: Waseda University)は、東京都新宿区戸塚町一丁目104番地(新宿区西早稲田一丁目6番1号)に本部を置く日本の私立大学。1882年創立、1920年大学設置。大学の略称は早大(そうだい)。
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早稲田大学 | |
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大学設置 | 1920年 |
創立 | 1882年 |
創立者 | 大隈重信 |
学校種別 | 私立 |
設置者 | 学校法人早稲田大学 |
本部所在地 |
東京都新宿区戸塚町一丁目104番地(新宿区西早稲田一丁目6番1号) 北緯35度42分37秒 東経139度43分18.2秒 |
学生数 | 47,094 |
キャンパス |
早稲田(東京都新宿区) 戸山(東京都新宿区) 西早稲田(東京都新宿区) 喜久井町(東京都新宿区) 所沢(埼玉県所沢市) 本庄(埼玉県本庄市) 北九州(福岡県北九州市) 東伏見(東京都西東京市) 日本橋(東京都中央区) 上石神井(東京都練馬区) エクステンションセンター早稲田校(東京都新宿区) エクステンションセンター八丁堀校(東京都中央区) エクステンションセンター中野校(東京都中野区) |
学部 |
政治経済学部 法学部 文化構想学部 文学部 教育学部 商学部 基幹理工学部 創造理工学部 先進理工学部 社会科学部 人間科学部 スポーツ科学部 国際教養学部 |
研究科 |
政治学研究科 経済学研究科 法学研究科 文学研究科 商学研究科 経営管理研究科 基幹理工学研究科 創造理工学研究科 先進理工学研究科 教育学研究科 人間科学研究科 社会科学研究科 スポーツ科学研究科 アジア太平洋研究科 日本語教育研究科 情報生産システム研究科 法務研究科 ファイナンス研究科 会計研究科 環境・エネルギー研究科 教職研究科 国際コミュニケーション研究科 |
ウェブサイト | 早稲田大学 |
大隈重信が明治十四年の政変による下野後に設立した東京専門学校を前身とする四年制の大学である[1]。1920年(大正9年)に日本の私立大学では慶應義塾大学などと共に最も古い段階で大学令に基づく大学となった(詳しくは旧制大学参照)。2019年時点で、10の学術院のもと13学部・25研究科(大学院)を設置している[2]。国際交流が盛んで、特にアジアからの外国人留学生が多い。
大隈重信が明治の代表的な政治家の一人であり、イギリス流の政治経済学を中心とする大学をモデルに設計されていることから政治経済学部を看板学部とし、政治経済学部を中心に政界・財界に多くの人材を輩出しているのをはじめとして、出版・新聞・文学などの分野でも多くの卒業生が活躍している。イギリスの教育専門誌『タイムズ・ハイアー・エデュケーション』による2017年の日本版ランキングでは、私大1位に認定された[3]。
早稲田大学は、東京専門学校時代から、文部省「特別認可学校規則」や専門学校令の特例適用、大学令による私立大学として最初期の認可などを受けてきた。政治学・法律学・文学・商学・理工学・教育学・芸術・スポーツなど様々な分野で、近代日本国家の教育・研究分野の形成をリードしてきた学校であり、上述の慶大と共に「私学の雄」と並び称され、私立大学の最高峰に位置付けられることが多い[4]。
同窓会は「稲門会」(とうもんかい)と称され、 早稲田大学校友会に登録している「登録稲門会」に限っても1,300を超える団体が存在し、国内有数の学閥となっている。
1913年(大正2年)当時の総長大隈重信は、前身となる東京専門学校の創立30周年記念祝典において、早稲田大学教旨を宣言した。
「学問の独立」「学問の活用」「模範国民の造就」を基本理念としている。
早稲田大学教旨は、高田早苗、坪内逍遥、天野為之、市島謙吉、浮田和民、松平康国などが草案を作成し、大隈重信が校閲のうえ発表した。1937年(昭和12年)に教旨の碑文が早稲田大学正門前に設置された[5]。碑文の刻字は、前島密が1915年(大正4年)に揮毫した自筆が元であり、原本は大学に保存されている[6]。
戦後(1949年)、「立憲帝国の忠良なる臣民として」の14文字は「主権在民を謳った新憲法にふさわしくない」[7]として教旨から削除されたが、正門前の「早稲田大学教旨」の碑に刻まれた語句については「思想の変遷を知る歴史的文書としてそのままに保存することがかえって記念碑の趣旨に副う」[7]として削られることはなかった。現在、石碑は正門の外側左に移設され、大学の外から誰でも自由に見られるようになっている[8]。
『早稲田大学百年史』に「最も直接的な建学の基礎的感化を与えたのはグイド・フルベッキである。フルベッキがなかったら、早稲田大学はなく、建っても、勿論、ひどく形式、精神の異なったものとなったであろう」という記述がある。大隈重信は長崎の佐賀藩藩校「致遠館」でフルベッキに英語を習った。教材は新約聖書、アメリカ独立宣言などであった。「アメリカ独立宣言を起草したジェファーソンは、合衆国に民主主義の政治を実行するためには青年を教育することが必要としてバージニア大学を創設した。ジェファーソンと同じ考えで私は早稲田大学を創設した」と述べ、「フルベッキなくして大隈なし、大隈なくして早稲田大学なし」としてフルベッキを建学の祖と称えている[9][10][11]。
早稲田大学は、1882年(明治15年)10月21日に創設した「東京専門学校」を前身とする。当初は、創立者・大隈重信の別邸が東京府南豊島郡早稲田村に、また、校舎が同郡戸塚村にあったことから、関係者には「早稲田学校」「戸塚学校」と呼ばれていたが、最終的には「東京専門学校」と名付けられた。1892年頃には、専門学校の別名として「早稲田学校」と呼ばれるようになった。以後、1902年9月2日付で、専門学校から大学への昇格を機に、大隈によって代表される早稲田の地名をとり「早稲田大学」と改称した(常用漢字の改正以前は、「稲」は、「旧」ではなく「臼」の「稻」を使い、「早稻田大學」と表記していた。卒業時の学位記を納める楯には現在も旧字体が使われている)。