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真田正穀
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真田 正穀(さなだ まさよし、天保5年(1834年)6月8日 – 大正4年(1915年))は、土佐藩士。土佐藩の海軍・軍艦行政を担った官僚的藩士で、維新後は中央・地方官を歴任した。旧姓は武藤、別名・号に武藤広陵、颿(はやめ)があり、明治期に正穀、のち真田庵と改名した。
概要
土佐藩の上士身分である御馬廻に属し、藩船運用・軍艦行政・蒸気機関教育などを担当した、土佐藩における海軍行政の専門家である。吉田東洋門下としても知られる。
天保5年(1834年)6月8日、土佐国高知城下下金子橋に生まれる。父は御馬廻・武藤万作。正穀は次男で、実兄の武藤清八は御山奉行を務めた。身分は上士・御馬廻である。
若年より藩政実務に通じ、藩船夕顔の船将を務めた。武藤は坂本龍馬と親しく、長岡謙吉とも家族ぐるみの交友があった。正穀は広陵と号し、吉田東洋の門下に属した。龍馬と同時期に江戸に出ており、龍馬の書簡には正穀を「実に心路安き人なれば」と評した記述が見える。一方、正穀も龍馬を「蒸気船の将」と称し、相互に高く評価していた[1]。
文久2年(1862年)11月に御船奉行となり、翌文久3年(1863年)11月には御軍艦修練御用を担当した。慶応元年(1865年)5月に小目付役、同年7月に御銀奉行、国産役兼帯を経て、慶応2年(1866年)7月には軍艦第一等士官、事務役、蒸気機関車学助教、軍艦局頭、関船局御用兼帯などを歴任し、藩の軍艦・蒸気機関・船政全般に深く関与した[2]。
維新後は武藤颿と称していたが、明治初年に真田正穀と改名し、さらに真田庵とも名乗った。明治4年(1871年)には兵部省七等出仕となる[3][4]。先祖が真田信綱であるとし、明治期に真田姓を称したとされる[5]。
明治7年(1874年)には海軍省大丞となり[6]、以後は地方官として各地を歴任した。鹿児島県加治木署長、沖縄県勧業課長、沖縄県典獄所長、福島県南会津郡長、福井県丹生郡長、敦賀郡長などを務めている[5]。
晩年は高知に帰り、高見で隠居生活を送り、大正4年(1915年)に82歳で死去した。墓所は潮江山にある[5]。
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脚注
参考文献
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