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瞿佑
中国元末期 – 明の文人、著作家 (1347-1433) ウィキペディアから
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瞿 佑(く ゆう、1347年 - 1433年[1])は、中国元末明初の文人・著作家。字は宗吉。号は存斎[2]。杭州銭塘県の出身。
生涯
生没年(1347年-1433年)の根拠とする出典は、生年が『重校剪燈新話後序』[3]、没年が『列朝詩集小伝[4]』[5]および『浙江通志』[6]である[7]。
なお『列朝詩集小伝 乙集 瞿長史佑』には14歳時の逸話が収録されており、早くから詩名のあった詩人だったことが分かる。
長史の瞿佑は字を宗吉、銭塘の人である。楊廉夫[8]が杭州に遊び瞿佑の叔祖父の瞿士衡を訪ねたとき、瞿佑の父を伝桂堂で来訪した。瞿佑の年は十四だったが、楊廉夫の『香奩八題』を見て、即席に唱和し俊語を畳出した。其は
『花塵春跡』に云く「燕尾波に點じ微に韻有り、鳳頭月を踏んで悄として声無し」、
『黛眉顰色』に云く「恨は張敞の毫辺より起り、春は梁鴻の案上に向かって生ず」、
『金銭卜歓』に云く「錦を織る軒窓に笑語を聞き、蘋を採る洲渚に愁吁を聴く」、
『香頬啼痕』に云く「斑斑たる湘竹は雨に因るに非ず、點點たる楊花は是れ春に不ず」と。
楊廉夫は嘆賞し、瞿士衡に謂を曰く「此は君家の千里の駒也」。因に鞋杯を以て命題す。瞿佑が沁園春[9]を製し一闋すると、楊廉夫は大喜し、侍妓に歌を命じ以て行酒、歓飲して罷せり。洪武年間、薦歴を以て仁和県・臨安県・宜陽県の訓導、周王府右長史についた。永楽13年(1415年)、詔獄を下され、謫戍として保安州に十年。洪熙元年(1425年)、英国公張輔の奏請により赦され還り、張輔の家塾に仕え、三年後帰還する。没年は八十七。
瞿佑の風情は麗逸で、『剪燈新話』および楽府歌詞を著し、「偎紅倚翠」之語多し、為時伝誦。其の保安州に在るとき、当に興和を失守し、辺境蕭条たり。永楽17年(1419年)、仏曲は辺塞に降して、子弟を選ぶ唱う、時元宵に値う。『望江南』五首を作り、聞者淒然として泣下せり。『漫興詩』および『書生嘆』諸篇有り、今貧士失職者は皆な諷詠に至る。 — 『列朝詩集小伝 乙集 瞿長史佑』(全)
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著作
75歳の自筆『重校剪燈新話後序』前半には保安州に在るときに失われたものを思い出しながら列挙した著書名が記されている。
少日読書之暇、性著述を喜み、螢窓雪案に筆を手に輟めず。毎に郷丈「拓軒凌公」の称許する所と為る。知らざる者は玩物喪志の譏有り。それども決意回げず。殆んど寝食を忘る。久しくそして長編巨冊を積みて部帙を成す。
「治経」則ち『春秋貫珠』『春秋捷音』『正葩掇英』『誠意斎課稾』有り、
— 『重校剪燈新話後序』前半(影印からの書起し)
「閲史」則ち『管見摘編』『集覧鐫誤』有り、
「作詩」則ち『皷吹続音』『風木遺音』『楽府擬題』『屏佳趣』『香臺集』『釆芹稾』有り、
「攻文」則ち『名賢文粋』『存斎類編』有り、
「填詞」則ち『餘清曲譜』『天機』『雲錦纂言』有り、
「紀事」則ち『遊藝録』『剪燈録』『大蔵捜奇』『学海遺珠』等集有り。
これらはほとんどが佚書となっているが、「紀事」の『剪燈録』の残編を集めた『剪燈新話』は現存、「作詩」の『香臺集』、「填詞」の『餘清曲譜』は部分現存、「攻文」の『存斎類編』に含まれる『帰田詩話』も現存する[10]。
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脚注・出典
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