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矢野梅庵

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矢野 梅庵(やの ばいあん、文化11年5月1日(1814年6月18日)[1] - 明治29年(1896年6月15日[2])は、江戸時代末期(幕末期)の武士福岡藩家老。諱は幸賢(とみかた)[1]。通称は六太夫、相模。梅庵はその号[2]

生涯

福岡藩累世の重臣である、矢野家の第7代当主であり、福岡藩家老をつとめた矢野幸端(とみまさ)の長男として、福岡大名町堀端に生まれる。幼名は欣太郎。藩校修猷館に学ぶ。共に尊王攘夷派である平野国臣とは若い頃から親交があり、天下国家を論じ合っていた[3]

長崎警護を勤めた後、安政2年2月5日(1855年3月22日)家老の列に加えられ、藩政改革を主導するも、他の家老と意見を異にしたため、同年4月28日(1855年6月12日)家老職を退く。文久3年3月(1963年4月)家名を長男幸衡(とみひら)に譲り退隠して梅庵と号す[4]

元治元年8月17日(1864年9月17日)、再び家老職に就き、相模と称す。この頃、薩摩藩の大島吉之助(西郷隆盛)が幾度か福岡を訪れて国事を議していたが、梅庵はしばしば応接して天下の大勢を論じ合っている[5]。翌慶応元年(1865年)の乙丑の獄では死罪を免れるも、再び家老職を退けられる[6]

明治維新後、福岡県大参事となり、県政に努める。明治29年(1896年)に83歳で死去する[2]

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脚注

参考文献

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