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石重貴
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石 重貴(せき じゅうき)は、五代十国時代の後晋の第2代(最後の)皇帝。『新五代史』では出帝と記載される。
生涯
皇族時代
石重貴は高祖(石敬瑭)の兄の石敬儒の子として晋陽に生まれた。その後、石敬瑭の養子となる。
天福元年(936年)、石重貴は石敬瑭に従って洛陽に入り、北京留守・太原尹・河東節度使に任じられた。
天福3年(938年)11月、石重貴は鄭王・開封尹に任じられた。
即位後
天福7年(942年)6月に高祖(石敬瑭)が崩御したことにより、石重貴は後晋の2代皇帝に即位し、開運と改元した。
石重貴の在位中の後晋は、蝗害が各地で発生し、逃戸飢民が大量に発生した。また景延広の建議により契丹への臣下の礼を廃し、後晋は契丹に対し対決姿勢を明確にした。
この後晋の挑戦的な姿勢に対して、契丹は後晋に侵攻したが、後晋は契丹軍を2度にわたり防いだ。
しかし、開運3年(946年)、契丹の3度目の侵攻で、後晋の都「開封」は陥落し、出帝(石重貴)は契丹軍に降伏した。ここに後晋は滅亡した。
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宗室
后妃
- 馮皇后
男子
- 石延煦
- 石延宝
参考文献
- 滋野井恬「五代の功徳使に關する管見」(『東方宗教』16号、1960年)
関連項目
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