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秋山充三郎
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秋山 充三郎(あきやま みつさぶろう、1885年(明治18年)2月17日[1] - 1944年(昭和19年)3月14日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。功三級[2]。
経歴
茨城県出身[1]。陸軍士官学校第18期、陸軍大学校第29期卒業[1]。1922年(大正11年)4月、陸軍歩兵少佐に進級し[3]、1923年(大正12年)9月時点で基隆要塞参謀の任にあった[3]。1925年(大正14年)9月時点で歩兵第34連隊附となり[4]、1926年(大正15年)3月に陸軍歩兵中佐に進級した[5]。1927年(昭和2年)3月より歩兵第34連隊附のまま、静岡高等学校に配属され[6]、1928年(昭和3年)9月時点で静岡県立焼津水産学校配属を兼ねた[7]。
1929年(昭和4年)3月に第19師団参謀に転じ[8]、1931年(昭和6年)8月に陸軍歩兵大佐進級と同時に高田連隊区司令官に着任した[2]。1933年(昭和8年)3月に歩兵第28連隊長(第7師団・歩兵第14旅団[9][10])に転じ[2]、1936年(昭和11年)3月に陸軍少将進級と同時に歩兵第13旅団長(第7師団[9][11])に着任した[1][2]。1937年(昭和12年)8月2日に待命となり[1]、8月22日に予備役に編入されたが[1]、同年10月12日に召集され、歩兵第127旅団長(中支那方面軍・第10軍・第114師団)に着任して日中戦争に出動[1]。徐州会戦などの各作戦で奮戦し[1]、1939年(昭和14年)9月25日に召集解除となった[1]。
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脚注
参考文献
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