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称念寺 (坂井市)
福井県坂井市にある寺院 ウィキペディアから
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称念寺(しょうねんじ)は、福井県坂井市丸岡町長崎にある時宗の寺院。山号は長林山。院号は往生院。

歴史
この寺は、室町時代につくられた縁起によれば、721年(養老5年)に元正天皇の勅を得て泰澄大師によって開かれたと創建され、1290年(正応3年)他阿真教によって時宗に改められたという[1]。
新田義貞が1338年(延元3年・暦応元年)に越前国藤島の燈明寺畷(現在の福井市新田塚)の戦いで戦死すると、時衆によって遺骸が往生院に運ばれたと『太平記』にある。この往生院が当寺とされている。当寺境内に義貞墓所[2]があった。
室町時代には、後花園天皇[要出典]や室町幕府3代将軍足利義満[要出典]、8代将軍足利義政[3]の祈願所となり、そのほか武将の帰依を得た。後に、徳川将軍家の香華院となって栄えたが、明治政府による版籍奉還の影響で、無檀家無俸禄となり経済的危機にさらされた[1]。やがて寺はもぬけの殻になったが、それを救ったのは広島県尾道の海徳寺住職高尾玄師であった。1914年(大正3年)に再建を果たし、1937年(昭和12年)には新田公600回忌法要を執り行った[4]。その後も福井地震によって存続の危機にたたされるも、多くの人々の協力・支援により今尚人々に愛される寺院となっている[4]。
近くにあった末寺の光明院は倉を経営していた[5]。また三国港から日本海を通じて交易を行っていた。そのため越後国府中(新潟県上越市)に同名の寺もできた[注釈 1]。高田城下に移転した。
門前に明智光秀が、越前国の朝倉義景仕官時に住んでいた[注釈 2]。これは史実とは別に『明智軍記』として脚色され、広く読まれた。妻を置いて全国武者修行した創作の物語に因んで、松尾芭蕉が「月さびよ明智が妻の咄せむ」と詠んでいる。芭蕉の句碑が境内にある[7]。
歴代住職の阿号は「薗阿」である。
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文化財
参考文献
- 谷口研語、2014、『明智光秀』、洋泉社〈歴史新書y〉 ISBN 978-4800304216
脚注
関連項目
外部リンク
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