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程知節

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程知節
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程 知節(てい ちせつ、開皇9年(589年) - 麟徳2年2月7日665年2月26日))は、中国軍人。もとの名は咬金[1]本貫済州東阿県。唐の凌煙閣二十四功臣のひとりに挙げられた。

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程知節

経歴

瀛州刺史の程婁の子として生まれた。大業末年、人々を集めて郷里の防衛と治安維持にあたった。のちに李密に従った。ときに李密は軍中の勇士八千を四驃騎に属させ、左右に分けて自衛にあたらせ、「内軍」と号した。李密は「この八千は百万の兵に匹敵する」と常々自負していた。知節は驃騎のひとつを領して、李密の恩遇も特に厚かった。王世充と李密が戦ったとき、知節は北邙山にあって内騎営を受け持ち、単雄信偃師にあって外騎営を受け持った。王世充が単雄信を襲撃すると、李密は知節と裴行儼裴仁基の子)を派遣して単雄信を救援した。裴行儼が流れ矢に当たって落馬すると、知節はこれを救い、裴行儼を馬上に抱えて馳せもどった。のちに李密が敗れると、知節は王世充に捕らえられた。王世充の性格を嫌って、秦叔宝とともに唐に帰順し、秦王府左三統軍に任ぜられた。宋金剛竇建徳・王世充との戦いに従軍して、左一馬軍総管を兼領し、先陣を切ったことも幾度かあった。功績により宿国公に封ぜられた。

武徳7年(624年)、李建成による讒言を受けて、西康州刺史に左遷された。しかし知節は「大王の側近が去っては、身の安全をはかろうとしてもできましょうか?知節は死んでも、去りませんぞ」と李世民に言って赴任しなかった。武徳9年(626年)、玄武門の変ののち、太子右衛率[2]に任ぜられた。まもなく右武衛大将軍に転じ、実封七百戸を受けた。貞観初年、瀘戎栄三州諸軍事・瀘州刺史となり、行軍総管となって鉄山獠の乱を平定した。左領軍大将軍・原州都督を歴任した。貞観11年(637年)、普州刺史となり、盧国公に改封された。幽州刺史・左屯衛大将軍などをつとめた。永徽年間、左衛大将軍・検校屯衛兵馬に転じた。

顕慶2年(657年)、葱山道行軍大総管に任ぜられ、西突厥阿史那賀魯(沙鉢羅可汗)を討った。唐軍が怛篤城にいたると、胡人数千が降ってきたが、知節はその城ごと虐殺して去ったという。阿史那賀魯は遠く逃げ去った。軍が帰還すると、罪に連座して免職された。岐州刺史として再起用されたが、まもなく致仕した。

麟徳2年(665年)2月に長安の懐徳里の邸で病死した。享年は77。驃騎大将軍・益州大都督の位を追贈され、襄とされ、昭陵に陪葬された。

夫人は清河崔氏で、顕慶3年(658年)に亡くなり、知節とともに合葬された。

子に程処黙・程処亮・程処弼があった。程処黙が盧国公を継いだ。程処亮は太宗の娘の清河公主の降嫁を受けて、駙馬都尉・左衛中郎将となった。程処弼は右金吾将軍となった。

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人物・逸話

世充が雄信の陣営を襲撃したため、密は知節と裴行儼を派遣して援護させた。行儼は真っ先に敵陣へ突入したが、流れ矢に当たって地面に墜落した。知節はこれを救おうと数人を斬り殺し、世充軍を散々に打ち破ると、行儼を抱えて同じ馬に乗せて帰還した。世充の騎兵に追撃された際、敵の矛が貫通してくるが、知節は振り返ってその矛を捻り折り、さらに追ってきた兵を斬り伏せた。こうして行儼と共に難を逃れた。

程知節は秦叔寶に言った。「王世充は器量が狭く、根拠のない言葉を多用し、好んで誓約を立てる。まるで巫女のような人物だ。どうして乱世を治める君主となれようか」。その後、王世充が九曲(きゅうきょく)で唐軍と対峙した際、程知節は配下の部隊を率いて王世充の陣中にいた。彼は秦叔寶らとともに馬の上から王世充に向かって拱手の礼をして言った。「これまで厚遇していただき、深く恩に報いたいと願っておりました。しかし、あなたは猜疑心が強く、周囲にも扇動する者が多い。もはや私が身を寄せるべき場所ではありません。ここで謹んでお別れを申し上げます」。こうして彼は馬を駆って数十名の側近とともに唐軍陣営へ投降した。王世充はその威勢に恐れをなし、追撃することはできなかった。

民間伝説によれば、程咬金は釣りの名手であったと伝えられている。彼は自ら、酒米や塩、油かすを混ぜた独自の餌を開発し、他の者たちとの釣り競争で勝利を収めたという。 また、普州(現在の四川省安岳県一帯)に伝わる地方伝説では、程咬金が普州刺史として赴任していた頃、釣竿とミミズを使い、岳陽河のほとりで大鳌を釣り上げたと語り継がれている。

演義小説の中で、程咬金が皇帝への貢物を運ぶ隊列「皇綱」を略奪し、貢品輸送隊を繰り返し襲ったという故事に基づき、民間では「半路杀出个程咬金(途中で程咬金が飛び出してくる=思いがけない人物が突然現れて事態を混乱させる)」という俗諺が生まれました。これは、突発的な出来事によって元々の計画が台無しにされることを喩えており、予想外の事態が発生することを指します。

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評価

李世民:その志には鋭い才知が込められ、気性は強く果断である。艱難辛苦の事業に参与して功績を立て、戦場においてその力を発揮した。 朝廷では禁衛として仕え、忠誠と勤勉を宮中に示し、地方に出鎮しては、慈恵に満ちた教化を庶民の間に広めた。 功績に報いる典章に基づき、ここに栄誉に満ちたご任命を盛大に行う。

劉肅:程咬金が叔宝に言った「王世充はやたらと誓約を好むが、それはまるで老女巫のようなものだ。どうして乱世を治める主君となろうか」。その後、王世充が唐の軍に抵抗した時、二人は兵を率いて出陣したが、馬の上で王世充に一礼すると、その場で降伏した。太宗は彼らを大変重用し、二人は功績と名声を成し遂げ、平穏な死を迎えた。二人はまさに「万人敵」の勇将であった。

劉昫:程知節は国の難局を平定しようと志し、禁衛の高官に任じられてからは、命を賭けて君主を補佐した。まさに忠義と言える。さらに、王世充の猜疑心を見抜き、唐代の霸業を成し遂げる大志を認識した。これは、機微を察知する君子であったと言えよう。

吕温:盧国公(程知節)は卓越しており、その行動は常に機先を制していた。災いを転じて福となし(秦叔宝や胡公らと九曲で共に唐に帰順)、天を駆ける龍に縋るが如く、大業に参画した。翻る大鵬の翼の如く、風を積みてこそ高く舞い上がる。威厳ある將軍よ、大敵に直面してこそ真の勇猛さを発揮する。その勢いは雷の如く山谷を崩し、貔貅(ひきゅう)や虎のような強敵を敗走せしめ、疾風の如く大海を覆し、鯨や鰐(わに)のような巨魁を失脚させた。危機を見ては進み、死すべき時には決して退かなかった。三朝にわたり国の盾となり、身は老いても気魄はますます壮んである。

伝記資料

  • 旧唐書』巻68 列伝第18「程知節伝」
  • 新唐書』巻90 列伝第15「程知節伝」
  • 大唐故驃騎大将軍盧国公程使君墓誌

脚注

関連項目

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