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竹崎氏

日本の氏族 ウィキペディアから

竹崎氏
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竹崎氏(たけざきし/たけざきうじ)は、日本氏族

概要 竹崎氏, 本姓 ...

菊池氏庶流とされ、文永の役弘安の役の活躍で知られる竹崎季長を出した肥後竹崎氏が著名。

由来

肥後国八代郡竹崎村より起こる。菊池氏阿蘇氏の家臣。 肥後菊池氏の庶流とされるが、それを裏付ける家系図が残されておらず、竹崎季長以降の竹崎氏の流れについても不明点が多い。後には阿蘇氏家臣として活動した形跡が窺える。

人物

  • 竹崎季長 : 蒙古襲来の時に大功を立てる[1]。「蒙古襲来絵詞」でも著名。
  • 竹崎右衛門大夫 : 興国7年(1346年)、恵良惟澄に従う[1]
  • 竹崎左衛門太郎 : 正平元年(1346年)、少弐頼尚一族対馬豊前守と交戦し、撃退[2]
  • 竹崎惟貞 : 正平2年(1347年)、恵良惟澄とともに征西府に恩賞地を要求[2]
  • 竹崎惟岑 : 伊豆守。菊池勢力に下る[3]
  • 竹崎惟氏 : 安藝守[3]
  • 竹崎惟夏 : 文亀3年(1503年)12月19日、阿蘇家重臣の木山惟貞竹崎惟満に宛てた書状を書く。木山城領の支配地をめぐり、菊池・阿蘇両氏の交渉を描く。(『阿蘇家文書』、「竹崎惟夏書状」、刊本296号)
  • 竹崎惟満 : 筑前守。阿蘇家当主・阿蘇惟将の家臣として、木山惟貞とともに、阿蘇家に仕えた。
  • 竹崎長秀 : 長門入道と称する。天正18年(1590年)4月、阿蘇惟賢阿蘇惟前の子)に随行[2]。惟賢が阿蘇惟光への忠誠を誓う。このことから、同年5月20日、長秀は、惟光への忠誠起請文を仁田長門守に提出する[4]
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脚注

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