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符習

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符 習(ふ しゅう、生年不詳 - 933年)は、末から五代十国時代にかけての軍人本貫趙州昭慶県[1][2]

経歴

若くして従軍し、成徳軍節度使の王鎔に仕えて、功績を重ねて列校となった。晋王李存勗が河北を経略するにあたって、王鎔と同盟していたため、符習は軍を率いて李存勗の征討に従った。天祐18年(921年)、王鎔が張文礼に殺害されたとき、符習は徳勝寨にいたが、張文礼は符習らに鎮州に帰るよう求めた。符習が王鎔の仇を取りたいと李存勗に泣いて訴えたため、李存勗は閻宝史建瑭をつけて符習が張文礼を討つのを助けさせた。符習は成徳軍兵馬留後となった。張文礼が殺害されると、李存勗は符習を成徳軍節度使に任じようとしたが、符習は固辞した。天祐19年(922年)、李存勗が成徳軍節度使を兼領すると、相州衛州を割いて義寧軍を置き、符習は義寧軍節度使に任じられた。ほどなく天平軍節度使・東南面行営招討使に転じた[1][2]

同光元年(923年)、符習は安国軍節度使となった。同光2年(924年)、淄青節度使に転じた[1][2]。同光3年(925年)、酸棗県の河堤を修築した[3]。同光4年(926年)2月、趙在礼が魏州に拠ると、符習は青州の軍を率いてこれを討つことになった。軍乱が起こったため、符習は軍を退いて黄河を渡った。李嗣源鄴県から洛陽に赴く途中、符習は召し出されて胙城県で李嗣源に会った。符習は李嗣源に従って開封府に入った。天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が即位すると、符習は侍中を加えられ、青州に帰るよう命じられた。青州の守将の王公儼に阻まれたため、再び天平軍節度使に任じられた[4][5]

天成4年(929年)、宣武軍節度使に転じた。符習は安重誨と仲が悪く、民衆から金銭や租税を余分に搾取していると告発されて、罷免されて洛陽に召還された[6][7]長興元年(930年)、太子太師として致仕し、郷里の昭慶県に帰った[8]。長興4年(933年)、中風により死去した[9]太師の位を追贈された[6][7]

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子女

脚注

伝記資料

参考文献

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