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符習
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経歴
若くして従軍し、成徳軍節度使の王鎔に仕えて、功績を重ねて列校となった。晋王李存勗が河北を経略するにあたって、王鎔と同盟していたため、符習は軍を率いて李存勗の征討に従った。天祐18年(921年)、王鎔が張文礼に殺害されたとき、符習は徳勝寨にいたが、張文礼は符習らに鎮州に帰るよう求めた。符習が王鎔の仇を取りたいと李存勗に泣いて訴えたため、李存勗は閻宝や史建瑭をつけて符習が張文礼を討つのを助けさせた。符習は成徳軍兵馬留後となった。張文礼が殺害されると、李存勗は符習を成徳軍節度使に任じようとしたが、符習は固辞した。天祐19年(922年)、李存勗が成徳軍節度使を兼領すると、相州と衛州を割いて義寧軍を置き、符習は義寧軍節度使に任じられた。ほどなく天平軍節度使・東南面行営招討使に転じた[1][2]。
同光元年(923年)、符習は安国軍節度使となった。同光2年(924年)、淄青節度使に転じた[1][2]。同光3年(925年)、酸棗県の河堤を修築した[3]。同光4年(926年)2月、趙在礼が魏州に拠ると、符習は青州の軍を率いてこれを討つことになった。軍乱が起こったため、符習は軍を退いて黄河を渡った。李嗣源が鄴県から洛陽に赴く途中、符習は召し出されて胙城県で李嗣源に会った。符習は李嗣源に従って開封府に入った。天成元年(同年)、明宗(李嗣源)が即位すると、符習は侍中を加えられ、青州に帰るよう命じられた。青州の守将の王公儼に阻まれたため、再び天平軍節度使に任じられた[4][5]。
天成4年(929年)、宣武軍節度使に転じた。符習は安重誨と仲が悪く、民衆から金銭や租税を余分に搾取していると告発されて、罷免されて洛陽に召還された[6][7]。長興元年(930年)、太子太師として致仕し、郷里の昭慶県に帰った[8]。長興4年(933年)、中風により死去した[9]。太師の位を追贈された[6][7]。
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子女
脚注
伝記資料
参考文献
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