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篠塚重広

南北朝時代の南朝方の武将。新田四天王。伊賀守。 ウィキペディアから

篠塚重広
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篠塚 重広(しのづか しげひろ)は、南北朝時代南朝方の武将。重廣とも。篠塚伊賀守としても名を知られている。新田義貞の側近で、後代に新田四天王の一人に数えられた。

概要 凡例篠塚重広, 時代 ...
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怪力で知られた。月岡芳年

篠塚氏の出自は畠山氏とされる。

生涯

延慶2年(1309年)、上野国篠塚で誕生。家督を継いだ重広は篠塚城(現群馬県邑楽郡邑楽町)の第5代城主となり、新田義貞側近となった。 元弘3年(1333年)、義貞の鎌倉攻略に参陣している。建武の新政後の建武3年(1336年)、細川定禅の籠る近江三井寺攻略に従軍した。

延元3年/建武5年(1338年)、藤島の戦いで義貞が没すると重広は義貞の弟脇屋義助に従う。興国3年/暦応元年(1340年)には吉野へ向かい後村上天皇へ拝謁した。興国3年/康永元年(1342年)、北朝方の細川頼春と戦い、伊予世田城篭城したが、敗戦となり自ら「隠岐島」に落ち延びて[1]同年に没したといわれている。

太平記』には重広の武勇が描かれている。娘の伊賀局も怪力勇敢で知られた[2]

史跡

  • 茨城県神栖市波崎に、1345年頃篠塚伊賀守が瀬戸内海の沖ノ島(魚島)から波崎に上陸した際に置いた船の碇石と伝わるものがある。
  • 群馬県邑楽町篠塚に伊賀守公御廟がある。横の大信寺境内には碇石の複製がある。
  • 群馬県藤岡市篠塚に伊賀守を奉る神社がある。

脚注

参考文献

外部リンク

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