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米倉昌達
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米倉 昌達(よねくら まさよし[1][2] / まさたつ[3]、1886年(明治19年)7月15日[3] - 1937年(昭和12年)2月17日[1][3])は、大正から昭和期の薬学者、政治家、華族。貴族院子爵議員。旧姓・山口、旧名・重士[3]。

経歴
子爵・山口弘達の三男として生まれ、1913年(大正2年)子爵・米倉昌臧の養子となり[3][4]、同年3月、昌達と改名[2]。養父の死去に伴い、1916年(大正5年)12月20日、子爵を襲爵した[3][4][5]。
1911年(明治44年)東京帝国大学医科大学薬学科を卒業[1][4][6]。さらに1916年、同大学医学科を卒業した[1][4]。
1917年(大正6年)東京帝国大学伝染病研究所技手に就任。以後、同大学医科大学化学教室副手、同附属医院分院薬局長、日本医学専門学校教授兼学生監、千葉医科大学講師、京都薬学専門学校校長、昭和女子薬学専門学校校長、日本医科大学教授、同校学生監兼予科主任などを務めた[1][4][6]。
1918年(大正7年)7月10日、貴族院子爵議員に選出され[7][8]、研究会に所属して活動し[1]、死去するまで3期在任した[1]。
1937年の死去後、米倉家は女戸主となり栄典を喪失した[3]。
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親族
脚注
参考文献
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