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米原雲海
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米原 雲海(よねはら うんかい、1869年9月27日(明治2年8月22日)- 1925年(大正14年)3月25日)は、明治・大正期の日本の彫刻家。島根県出身。本名は「木山幸太郎」(きやま こうたろう)で、後に米原家の養子になる[1]。幼名は小三郎。

人物
明治2年(1869)出雲国安来(現島根県安来市)に生まれた[2]。初め建築彫刻を学び大工となったが、京都や奈良の彫刻に触発されて彫刻家を志し、明治23年には上京して、高村光雲に師事して木彫を学んだ。その後、日本美術協会展や内国勧業博覧会等で受賞を重ね、山崎朝雲とともに光雲門の双璧と称された。明治27年には、師光雲の号にちなみ雲海と号した[3]。明治28年には東京美術学校雇となり、同30年まで勤務する[3]。西洋彫刻の制作法も採り入れ、明治30年には石こう原型をもとに比例コンパスを使って拡大する技術を用いて「ジェンナー像」(東京国立博物館蔵)を制作し、木彫界に革命を起こした。明治40年には岡倉天心の下、山崎朝雲や平櫛田中らとともに日本彫刻会の結成にも参加し、以降,東洋的な題材の作品を多く制作する。文展や帝展の審査員も歴任し、大正8年(1919)には長野善光寺の仁王像を光雲との合作により完成させる。大正14年死去[3]。
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主な作品
前述の「ジェンナー像」のみならず、雲海は多数の作品を手掛けた。1907年、第一回東京勧業博覧会に『清宵』を出展し、一等賞を受賞した。この作品は1910年(明治43年)にロンドンで開催された日英博覧会でも金賞を受賞し、2002年(平成14年)には文化庁から登録美術品に登録された。他、『仙丹』『竹取翁』『旅人』『魚籃観音像』などの代表作がある[4]。以下、雲海による作品のうち主なものをいくつか挙げる。
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脚注
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