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紀元前403年
年 ウィキペディアから
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紀元前403年(きげんぜん403ねん)は、ローマ暦の年である。
当時は、「マメルキヌス、ウアルス、ポティトゥス、ルルス、クラッスス、フススが執政武官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元351年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前403年と表記されるのが一般的となった。
他の紀年法
できごと
ギリシア
- 戦勝者スパルタによりアテナイの統治体制として設けられた、三十人政権と称される寡頭制の新政権に対して、トラシュブロス は民主派による抵抗を主導した。アテネを追われた者たちで構成した小集団を率いてアッティケーを襲い、続く戦いで、まずスパルタの守備隊を破り、さらに三十人政権軍(スパルタの将軍リュサンドロスも加わっていた)をムニュキアの戦い (Battle of Munichia) で破った。三十人政権の中心人物のひとりクリティアスは、この戦いで討ち死にした。
- 三十人政権軍を破り、ペイライエウス(現在のピレウス)を占領していたアテナイからの亡命者たち間で、ペイライエウスの戦い (Battle of Piraeus) が戦われているところへ、スパルタ軍が来襲した。この戦闘では、スパルタ軍が辛勝したが、両軍とも多数の死傷者を出した。戦いの後、アギス朝スパルタ王パウサニアスは、民主派の党派抗争を仲裁して、アテナイとペイライエウスの再統合とアテナイの民主化への途を開いた。三十人政権の残党は、エレウシスへの亡命が許された。
- トラシュブロスはアテナイに民主政を回復し、極端な寡頭制論者を除いて、すべての者に恩赦を与えた。反寡頭制を論じる上で、トラシュブロスを支えたのは、アテナイの雄弁家であったリュシアスであった。
- アテナイの雄弁家・政治家であったアンドキデスは、紀元前415年のアテナイによるシチリア遠征の際、出発前夜にヘルマが破損された事件に関わってアテナイを離れていたが、恩赦を受けて亡命先からアテナイへ帰還した。
中国
文学
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誕生
→「Category:紀元前403年生」も参照
死去
→「Category:紀元前403年没」も参照
脚注
関連項目
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