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細川基経

室町時代中期の守護大名 ウィキペディアから

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細川 基経(ほそかわ もとつね)は、室町時代中期の守護大名和泉半国守護

概要 凡例細川基経, 時代 ...

官職は民部大輔細川和泉下守護家4代当主[2]

出自

従来、確認されている系図では勝信(細川家文書)や久之(永源師檀紀年録)という名前であるとされてきた。しかし、岡田謙一によって本来の名前が基経であったことが判明した[2]。和泉下守護家の通字である「久」の字が名前に使われていないことから、養子であるとされ、細川奥州家の人物であると推察されているものの、具体的な実父は不明[2]

概要

文明17年(1485年)には、和泉国国一揆が発生したのを、細川和泉上守護細川元有とともに鎮圧している。この際、基経は既に守護であったため、守護就任はこれ以前と推察されている[2]

蔭涼軒日録延徳元年(1489年)11月12日条によれば、先代の和泉下守護であった細川持久が、基経との不和によって出奔したという。

明応4年(1495年)には、元有と共に畠山尚順と手を結び、本家筋細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。このため、尚順とは対立するようになった。

後慈眼院殿御記』明応9年(1500年)9月1日条によれば、神尾合戦の影響で基経と元有が自害したという[2]

脚注

参考文献

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