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細川基経
室町時代中期の守護大名 ウィキペディアから
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細川 基経(ほそかわ もとつね)は、室町時代中期の守護大名。和泉半国守護。
![]() | この記事のほとんどまたは全てが唯一の出典にのみ基づいています。 (2023年7月) |
出自
従来、確認されている系図では勝信(細川家文書)や久之(永源師檀紀年録)という名前であるとされてきた。しかし、岡田謙一によって本来の名前が基経であったことが判明した[2]。和泉下守護家の通字である「久」の字が名前に使われていないことから、養子であるとされ、細川奥州家の人物であると推察されているものの、具体的な実父は不明[2]。
概要
文明17年(1485年)には、和泉国で国一揆が発生したのを、細川和泉上守護の細川元有とともに鎮圧している。この際、基経は既に守護であったため、守護就任はこれ以前と推察されている[2]。
『蔭涼軒日録』延徳元年(1489年)11月12日条によれば、先代の和泉下守護であった細川持久が、基経との不和によって出奔したという。
明応4年(1495年)には、元有と共に畠山尚順と手を結び、本家筋の細川政元と敵対したが、政元に敗れて降伏し、その家臣となった。このため、尚順とは対立するようになった。
脚注
参考文献
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