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羊飼いの礼拝 (コレッジョ)
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『羊飼いの礼拝』(ひつじかいのれいはい、伊: L'Adorazione dei pastori[1][2], 独: Die Anbetung der Hirten, 英: The Adoration of the Shepherd[3])あるいは『ラ・ノッテ』(伊: La Notte, 「夜」の意)は、ルネサンス期のイタリアのパルマ派の画家コレッジョが1529年から1530年頃に制作した祭壇画である。油彩。コレッジョを代表する傑作の1つであり、イタリア絵画において最も初期に描かれた記念碑的な夜景画の1つとして知られる[4][5][6][7]。レッジョ・エミリアのサン・プロスペロ聖堂にあるプラトニエーリ家(Famiglia Pratonieri)の礼拝堂のために制作された[2][3][4][5]。パルマ国立美術館に所蔵されているコレッジョの『聖ヒエロニムスの聖母』(La Madonna di San Girolamo)とは理念上の対をなすと見なされ[4][6]、前者が「昼」を意味する『イル・ジョルノ』(Il Giorno)と呼ばれるのに対して本作品は『ラ・ノッテ』と呼ばれる。現在はドレスデンのアルテ・マイスター絵画館に所蔵されている[2][3][4][5][6][7][8][9][10][11][12]。またケンブリッジのフィッツウィリアム美術館に本作品の準備素描が所蔵されている[3][10][13]。
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主題
ダビデの血筋であった聖ヨセフと身ごもっていた聖母マリアは住民登録をするためナザレからベツレヘムに赴いた。聖母マリアはその地で初めての子イエス・キリストを産み、産着にくるんで飼い葉桶に寝かせた。ところで羊飼いたちが野宿をして夜通し羊の群れの番をしていると、主の御使いが現れて彼らを主の栄光で照らした。恐れる羊飼いたちに対し、御使いは「恐れることはない。わたしは地上の民に大きな喜びを告げる。今日ベツレヘムで救世主がお生まれになった。あなたがたは布にくるまって飼い葉桶の中で寝かされた乳飲み子を見つけるであろう」と言った。さらにこの御使いに天の軍勢が加わり、神を賛美した。御使いたちが天に去ると羊飼いたちはベツレヘムに行き、聖母マリアと聖ヨセフおよび飼い葉桶に寝かせてある幼児キリストを探し当てた。羊飼いたちは目にしたものがすべて御使いの話したとおりだったので、彼らは神を崇拝し賛美しながら帰って行った[14]。
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制作経緯




本作品はレッジョ・エミリア出身の貴族アルベルト・プラトニエーリ(Alberto Pratonieri)によって、サン・プロスペロ聖堂にあるプラトニエーリ家の礼拝堂の祭壇画として1522年10月にコレッジョに発注された[1][2][3][4][7][9]。プラトニエーリ家の礼拝堂は降誕したキリストに捧げられており[3]、サン・プロスペロ聖堂の右側の側廊、5番目に位置し[11]、祭壇画の発注から8年を経た1530年に完成した[3]。祭壇画はおそらく礼拝堂の完成に合わせて1520年代後半以降、1520年代末[5][6]あるいは1530年頃に制作され[3]、礼拝堂が完成した後に祭壇に設置されたと考えられている。報酬は208リラであった[3]。
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作品
要約
視点
コレッジョは降誕したキリストと礼拝する羊飼いたちを描いた。幼児のキリストは聖体拝領を暗示する小麦の穂の束で作られた即席の寝床の上に横たわっている。その姿は夜明け前の闇の中で光り輝き、周囲を明るく照らし出している。聖母マリアは寝床のそばで跪きながら幼児のキリストを愛おしげに抱き寄せており、慈愛に満ちた表情で優しく微笑んでいる。その周囲には、ロバ(降誕の場面に登場する伝統的な動物)の手綱を引く聖ヨセフや、礼拝する羊飼い、聖母マリアの出産を手伝った女たちの姿が見える[3]。しかしキリストを恐れることなく見つめているのは聖母マリアだけであり[2]、女たちのうち、2羽のアヒルの子が入った籠を持つ女性は輝くキリストに驚愕し、左手で目を覆っている[2][10]。別の女性は礼拝するために馬小屋を訪れた老いた羊飼いを笑顔で見上げている。この髭を生やした羊飼いは画面左端に立ち、帽子を脱いで、杖に寄りかかりながら膝を曲げている。さらに少し離れた場所に2人の羊飼いの少年がおり、礼拝している少年は後から羊を連れてやって来た少年に跪くよう勧めている。女性たちの背後では、馬小屋が古代の異教の神殿跡に建てられたことを示す古い石柱が存在感を放っている。そしてその上方では神秘的な雲が広がり、その上に5人の幼い天使が舞い降りている。遠景の丘陵の輪郭は、夜明け前であることを仄めかす薄明の透き通るような大気に包まれている[2]。
構図は聖母マリアの腕に抱かれた幼児のキリストを中心とする。構図の非対称性や、対角線上に配置された人物たちは、ローマの厳格な古典主義から自由であったコレッジョの革新性を示している[7]。さらにコレッジョのデッサン、キアロスクーロ、色彩は他に類を見ない高みに到達している。老いた羊飼いの全身の動き、天上と地上の人物たちの手の効果、天使たちの巧みな身体のねじれ、天井の梁に生えた草、大きな飼い葉桶の細工など、「反古典的」(anticlassico)でありながら「自然らしさ」(naturalità)が随所に表現されている[2]。
天使たちはコレッジョが同時期に制作した、パルマ大聖堂の天井画の大胆な人物像を彷彿とさせる。この天使たちについてジョルジョ・ヴァザーリは「小屋の上では天使たちの合唱団が歌っているが、あまりに美しく描かれているため、画家の手によって生み出されたというより、まるで天から直接降りてきたかのようだ」と評した[2][3][9]。老いた羊飼いは『聖ヒエロニムスの聖母』の聖ヒエロニムスと同じ位置に描かれている。梁に生えた草は受難の予兆である珊瑚のように、幼児キリストの上に垂れ下がっている[2]。遠景の風景はエンツァ渓谷の有名な丘陵と考えられている[2]。
明暗法
特筆されるのは生まれたばかりのキリストである。キリストは画面の中で唯一の光源となっており、キリストから発せられた超自然的な光は登場する人物たちを明るく照らし出している。輝く幼児キリストの図像自体は15世紀末のフランドルを発祥とするが[5]、コレッジョはティツィアーノ・ヴェチェッリオの先例を模範とし、「蝋燭の灯に照らし出された」光景を見事に描き出した[4]。コレッジョの演出は巧みである。キリストから発せられた神聖な光は小麦の束へと広がり、マリアの髪は美しく光に満ち、画面の中の人物たちを活気づけている[2]。とりわけ聖母マリアの顔は白くなるほど輝き[3][10]、舞い降りた天使たちさえもキリストの光で照らされている[7]。画面全体に及ぶ明暗の対比も注目される。夜の闇はあらゆる色調を覆いつくしているにもかかわらず、コレッジョの筆は色彩を失わせていない。それどころか丸みを帯びた形を際立たせ、そのすべてに柔らかな印象を与えている。優しく照らし出されたヒイラギの葉は、レオナルド・ダ・ヴィンチや、ヴェネツィア派、フェラーラ派を彷彿とさせる[4][6]。
コレッジョが『羊飼いの礼拝』で提示した光の効果の探求は、後のロンバルディア派に方向性を指し示し、カミッロ・プロカッチーニ、ジョヴァンニ・ランフランコ、グイド・レーニ、ドメニキーノ、フェデリコ・バロッチ、カルロ・マラッタらの画家によって繰り返し使用された[4][6]。
来歴
要約
視点
完成した祭壇画はコレッジョの作品の中で最も有名な作品の1つとなり、1619年以降には『ラ・ノッテ』の名で知られるようになった[3]。イタリア人画家はもとより、エル・グレコやピーテル・パウル・ルーベンスといった多くの外国人画家が本作品を鑑賞するためにレッジョ・エミリアを訪れた[7]。この祭壇画を購入しようとする美術収集家たちも多かった。特にスペイン国王フェリペ4世はディエゴ・ベラスケスを通じて購入を試みたが、失敗に終わった[2][7]。
1640年、コレッジョの祭壇画はモデナ=レッジョ公爵フランチェスコ1世・デステによって夜陰に乗じて持ち去られた。その際、祭壇画は密かにフランスの画家ジャン・ブーランジェによる複製と置き換えられた。しかし複製であることが露見するとレッジョで暴動が起きた。このブーランジェの複製はオリジナルの額縁とともに現在もサン・プロスペロ聖堂の礼拝堂に残っている[3]。フランチェスコ1世は他にもコッレッジョのサン・フランチェスコ教会が所有していた『聖フランチェスコの聖母』(Madonna di San Francesco)と『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』(Riposo durante la fuga in Egitto con San Francesco)、『聖セバスティアヌスの聖母』(Madonna di san Sebastiano)、『聖ゲオルギウスの聖母』(Madonna di San Giorgio)といった重要作品を元の設置場所から自身の収集室に持ち込んだ。しかし、その後オーストリア継承戦争に巻き込まれたフランチェスコ3世・デステは軍事資金を得るために、1745年から1746年にかけてザクセン選帝侯フリードリヒ・アウグスト2世にエステ家のコレクションのうち最も優れた100の作品を売却した。売却価格はツェッキーノ金貨10万枚であった[7]。こうして『聖フランチェスコのいるエジプトへの逃避途上の休息』を除いたエステ家のコレッジョの絵画はことごとくドレスデンに運ばれた(ドレスデン・セ-ル)。本作品についてはその評判が広く知れ渡っていたため[3][12]、フリードリヒ・アウグスト2世はエステ家のコレクションから絵画が失われる補償として、ジュゼッペ・ノガリに複製の制作を依頼した[3]。ドレスデンの画廊監督官(Galerieinspektor)も本作品を高く評価し、「ヨーロッパ全土で名高い夜」(in ganz Europa Die berühmte Nacht)と呼ばれるようになるだろうと誇らしげに述べた[5]。その後、1800年頃にラファエロ・サンティの傑作『システィーナの聖母』(La Madonna Sistina)がドレスデンのコレクションに加わるまでの半世紀以上の間、本作品はドレスデンの最も有名な絵画作品であり続けた[12]。
1827年に祭壇画はピエトロ・パルマロリによる洗浄と修復を受けた。しかしパルマロリの修復は激しく批判された。1838年、イギリスの文芸雑誌『アテネウム』(The Athenaeum)は祭壇画の状態を「容赦ない破壊と修復の一例」と評し、パルマロリを「絵画の清掃婦」と呼んだ[3]。
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準備素描
フィッツウィリアム美術館に所蔵されている素描は本作品の初期構想を示す準備習作と考えられている。赤チョークと茶色のウォッシュで全体を描き、白でハイライトを強調した素描は非常に完成度が高く、その品質からコレッジョの素描の最高傑作の1つと見なされている[10]。ドレスデンの完成作と比較すると構図は大きく変更されているが[2][10]、コレッジョがこの素描を通じて構想を練ったと考えるに十分な類似点を有している。どちらの作品も建築要素としての石柱を備え、藁で作られた即席のベッドの上に寝かされたキリストと、その隣でひざまずきながら我が子を抱き寄せる聖母マリアの姿がある。また礼拝する羊飼いの頭上には神秘的な雲と幼い天使を見ることができる。周囲を照らすキリストの光は白のハイライトで描写している[10]。
影響
本作品の模写は有名なものがいくつか知られている。早くもカラッチ一族の1人ルドヴィコ・カラッチは、おそらく16世紀のうちに本作品の模写を制作した。この作品は現在サンパウロ宗教美術館に所蔵されている。フランスのストラスブールにあるロアン宮殿の礼拝堂には、本作品と『聖ヒエロニムスの聖母』、『スープ皿の聖母』(La Madonna della Scodella)の複製が設置されている。おそらく画家ロベール・ド・セリーがパトロンであった枢機卿アルマン・ガストン・マクシミリアン・ド・ロアンの依頼によって制作したものと思われる。制作時期はド・ロアン枢機卿がコンクラーベのためにローマに滞在した1724年と考えられている[15]。ドレスデン・セールの直後にもいくつかの複製が制作された。ジュゼッペ・ノガリの複製は現在モデナのエステンセ美術館に所蔵されている[16]。またドイツの画家テレーゼ・マロンも1746年頃に複製を制作した[17]。
版画による複製は17世紀後半になってようやく現れたが、それ以降多くの銅版画が制作され、夜景画の画家としての名声を確立するのに貢献した。1661年にアンジェロ・マリア・エスキーニ(Angelo Maria Eschini)はエッチングによる銅版画を制作した[18][19]。その後もナッシ・フランチェスコ(Nassi Francesco)、ヴァンサン・ユベール(Vincent Hubert)、ピエール=ルイ・シュリュグ、ジョヴァンニ・ペトリーニ(Giovanni Petrini)、セコンド・ビアンキ(Secondo Bianchi)らによって銅版画が制作された[20][21][22][23][24]。1838年にはドイツの版画家フランツ・ハンフシュテングルによってリトグラフが制作された[25]。
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ギャラリー
- サン・プロスペロ聖堂
- ロアン宮殿の礼拝堂に設置された複製
- ルドヴィコ・カラッチによる複製 16世紀 サンパウロ宗教美術館所蔵
- ピエール=ルイ・シュリュグによる銅版画 1750年頃[22]
- フランツ・ハンフシュテングルによるリトグラフ 1838年[25]
- ポストカード 1910年
脚注
参考文献
外部リンク
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