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エステンセ美術館
モデナの美術館 ウィキペディアから
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エステンセ美術館(エステンセびじゅつかん、伊: Galleria Estense, 英: Estense Gallery)は、イタリアのエミリア=ロマーニャ州モデナ県の県都モデナにある美術館である。エステ家美術館、エステ美術館とも表記される。モデナ=レッジョ公国、フェラーラ公国を統治したエステ家のコレクションを中心とする。モデナの中心部、サンタゴスティーノ広場(Piazza Sant'Agostino)にあるムゼイ宮殿の最上階(4階)に位置し、フレスコ画や油彩画などの西洋絵画、大理石やテラコッタ彫刻および彩色された彫刻、楽器、貨幣、骨董品や装飾骨董品まで、幅広い作品を展示している[3]。
1854年に最後のモデナ=レッジョ公爵、オーストリア=エステ大公フランチェスコ5世によって公的に設立され、1894年にモデナのドゥカーレ宮殿から現在の場所に移転した[3]。
2014年以降、エステンセ美術館は、モデナのエステンセ図書館、エステンセ宝石博物館、サッスオーロのドゥカーレ宮殿、フェラーラの国立絵画館を統合した独立した美術館群(Gallerie Estensi)の一部を形成している。これらの美術館はいずれも発展し続けるイタリアの宮廷貴族の美の嗜好を反映している[4]。
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概要
エステンセ美術館はテーマ別に配置された16の展示室と4つの大きな応接間で構成されている。コレクションには著名な芸術家と地元の芸術家の多岐にわたる作品が収蔵されている。大部分はイタリアの画家による作品が中心となっているが、フランドル、ドイツ、フランスの作品(ヤン・ファン・エイクの工房作、アルベルト・ボウツ、シャルル・ルブラン)や、シエラレオネとイランの西洋以外の作品も少数含まれている。
美術館に入ると最初に入場者を出迎えるのはバロック期のイタリア最大の彫刻家、ジャン・ロレンツォ・ベルニーニ作『フランチェスコ1世・デステの胸像』(Busto di Francesco I d'Este)である。バロック肖像彫刻の先駆的作例として広く知られているこの作品は、古代ギリシア・ローマ時代の遺物を展示する第一室と第二室の礎石となっており、続いて14世紀の祭壇画と彩色装飾が展示されている。
特筆すべき装飾品の中でも、マニエリスム様式の「エステ家のハープ」(L'Arpa Estense)はひときわ目を引く。この希少な楽器、長さ148cmのダブルハープは、フェラーラとフランドルの5人の芸術家、ジョヴァンイ・バッティスタ・ジャコメッティ(Giovanni Battista Giacometti)、ジュリオ・マレスコッティ(Giulio Marescotti)、イル・バスタルオーロ、ジョヴァンニ・バッティスタ・ロッセッリ(Giovan Battista Rosselli)、オラツィオ・ランベルティの共同制作によって制作された[5]。1961年から1981年にかけて、このハープが作曲家ジュゼッペ・ヴェルディの肖像と並んでイタリアの1000リラ紙幣に描かれたことは驚くに当たらない[6]。美術館にはモデナ出身の彫刻家ヴィリジェルモ作の『聖母子像』(Madonna col Bambino)と男像柱、キリストの降誕の場面を表現した18世紀の宝石珊瑚の工芸品、イングランド国王ジェームズ2世の死を寓意した木彫も展示されている[7][8][9][10]。
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歴史
要約
視点
チェーザレ・デステ



1598年、エステ公爵家はフェラーラの居城をローマ教皇クレメンス8世に明け渡し、公国の首都をモデナに移すことを余儀なくされた。モデナ=レッジョ公爵チェーザレ・デステは、数多くの希少かつ貴重な品々を含むエステ家の遺産を出来うる限り運び去ろうとした。とはいえ、祖父アルフォンソ1世ほどには芸術の保護に熱心ではなかったチェーザレは、カミッロ・ボルゲーゼ枢機卿や神聖ローマ皇帝フェルディナント2世といった有力政治家の支持を得るために、フェラーラに残されたコレクションの大部分をためらうことなく寄贈した[12]。
フランチェスコ1世・デステ
アルフォンソ3世の後継者フランチェスコ1世は大変な野心を抱いた人物であった。彼はフェラーラを奪還し、モデナにフェラーラ宮廷特有の芸術性豊かな雰囲気を復活させようと決意していた[13]。フランチェスコ1世は衰退したモデナ=レッジョ公国の新たな首都として堂々とした公爵邸を構想し、その建設プロジェクトをローマ出身の建築家バルトロメオ・アヴァンツィーニに委託した。アヴァンツィーニは、教皇との契約によりこの任務を引き受けることができなかったベルニーニの助言を受けることが出来た[14]。
公爵はディエゴ・ベラスケスやベルニーニに自身の肖像の制作を依頼した。ディエゴ・ベラスケスが制作した『フランチェスコ1世・デステの肖像』(Retrato de Francisco I d'Este)は、フランチェスコ1世がスペイン王国での外交旅行中に依頼したもので、現在もエステンセ美術館の貴重な宝物となっている。ベルニーニが大理石を用いて制作した崇高な『フランチェスコ1世・デステの胸像』は、公爵の肖像と勇敢さを苦もなく捉えているが、ベルニーニは一度も生身の本人を目にすることなく、ユストゥス・スステルマンスやジャン・ブーランジェの肖像画を手本として制作した。公爵の弟である枢機卿リナルド・デステに宛てた手紙によると、ベルニーニはこの仕事を非常に困難かつ無謀と判断して躊躇していたため、3000スクードという法外な報酬が提示されたが、これは教皇インノケンティウス10世がローマの『四大河の噴水』(La Fontana dei Quattro Fiumi)のためにベルニーニに支払った金額と全く同額である[14][15]。
この時代にエステ家のコレクションに加わった貴重な美術品はフランチェスコ1世が寄贈あるいは購入したものである。パオロ・ヴェロネーゼ、サルヴァトル・ローザ、ハンス・ホルバインの絵画、ベルニーニの大理石胸像(当時は公爵の愛人に捧げられた)などがその例である。しかしその一方で公爵は領内の教会や修道院から絵画を盗むようになった。この悪習はこれ以降もフランチェスコ1世の後継者によって日常的に繰り返された。これらの作品は抵抗を試みる司祭たちの目から隠され、二流の模造品に置き換えられた。このようにしてコレッジョ、パルミジャニーノ、チーマ・ダ・コネリアーノの作品が公爵のコレクションに加わった[14]。
フランチェスコ1世の後継者
フランチェスコ1世の息子アルフォンソ4世はエステ家のコレクションを初めて一般公開した。アルフォンソ4世の妃で、マッツァリーノ枢機卿の孫娘であったラウラ・マルティノッツィは、夫の死後、まだ2歳であった息子フランチェスコ2世の摂政として国政を執った。公爵夫人は美術品の購入に資金を出すことはなかったが、ペストの流行と三十年戦争によって深刻な被害を受けた国家の復興を目指し、慈善事業と教会や修道院の建設に多くを捧げた。
フランチェスコ2世の治世下では、エステ家のコレクションは豊かになるどころか逆に衰退していった。公爵は資金調達のため、コレクションの中でも特に優れた100点の作品をポーランド国王アウグスト3世に10万ツェッキーノ金貨(約650kg相当の金)という巨額で売却した[16]。こうして1746年7月、ジュリオ・ロマーノ、アンドレア・デル・サルト、ピーテル・パウル・ルーベンス、ディエゴ・ベラスケス、ハンス・ホルバイン、ティツィアーノ・ヴェチェッリオ、コレッジョ、パルミジャニーノ、グエルチーノ、グイド・レーニ、カラッチ兄弟など、多くの画家の作品がドレスデンに向けて旅立った。これらの作品は現在もアルテ・マイスター絵画館で鑑賞することができる。公爵の叔父であり後継者であるリナルド・デステも公国を芸術的に豊かにすることができなかった[15][17]。
フランチェスコ3世とその息子エルコレ3世は、美術品を回収するためにフランチェスコ1世と同様の略奪手法を用いた。公爵領の教会を略奪するだけでなく、不当な課税も用いた。その一例がスカンディアーノのボイアルド要塞から剥がされたニコロ・デッラバーテのフレスコ画である。この城壁からはいくつかの絵画も持ち去られた。
ナポレオン時代

エステ家のコレクションは高い評価を得ており(フランスの思想家シャルル・ド・ブロスは、これを「疑いなくイタリアで最も優れたコレクション」と評した[15])、ナポレオンの目にも留まった。ケラスコ停戦協定において、ナポレオンは1796年のイタリア戦役で生じた戦費の支払いとして、エステ家の絵画20点をパリへ寄贈するよう命じた。数か月後にはその数は70点に増加した。 この時期はモデナの絵画や素描のコレクション、公文書、デステ家の宝石彫刻のコレクションに対して行われた最も大規模な略奪で特徴づけられる[15]。
1796年10月14日、ナポレオンは2人の政治家ピエール=アンセルム・ギャローとアントワーヌ・クリストフ・サリセティを率いてモデナに入った。両名はドゥカーレ宮殿の素描とメダルの陳列室を何度も視察し、宮殿の訪問者たちによって言及された作品を選び出した。金箔のエナメルカメオと彫刻された半貴石は、ルーヴル美術館と自身の所有地に送られた。いくつかの素描は教育的な目的のためにモデナの美術アカデミーに委任されたが、圧倒的な数がパリに送られた。コレッジョ、パルミジャニーノ、ジュリオ・ロマーノ、ペリーノ・デル・ヴァーガ、カラッチ兄弟、サンドロ・ボッティチェッリの『誹謗』(La Calunnia)、アンドレア・マンテーニャの工房による『ソロモンの判断』(Giudizio di Salomone)を含む、盛期ルネッサンスの慣行を反映した選び抜かれた美術品から、700点のみが残されている。
10月17日、多数の原稿や古写本を含む94冊の蔵書が公爵の図書館からパリのフランス国立図書館に移送されることが決定した。ナポレオン自身はモデナを急いで通過する途中、16世紀から18世紀にかけて発行されたカエサルの『ガリア戦記』2冊を持ち去った[19]。貨幣コレクションに関しては、フランス国立図書館は900枚のローマ帝国の青銅貨を受け取った。そのうち124枚はローマ植民地のもので、銀貨は10枚、刻印貨幣は31枚、さらにギリシア貨幣は44枚、教皇庁造幣局の貨幣は103枚であった。ナポレオンの妻ジョゼフィーヌもこれに続いた。1797年2月にモデナのドゥカーレ宮殿に滞在した皇后は、単に貨幣コレクションを「見る」だけでは満足しなかった。皇后は約200点の貨幣を得たが、これに同行した夫の廷臣たちが選んだものも加えられた。
グエルチーノの祭壇画『聖母子と四聖人』(La Vergine col Bambino e quattro santi, 1651年)や『聖パウロ』(San Paolo, 1644年)といったエミリア派の絵画、グイド・レーニの『聖母マリアの清め』(La Purificazione della Vergine)、アンニーバレ・カラッチの『聖ルカと聖カタリナの前に現れる聖母』(La Vergine appare a San Luca e santa Caterina d'Alessandria, 1592年)、チーゴリの『ヤコブの夢』(Il sogno di Giacobbe, 1593年)、彫刻家ジャンボローニャの『キリストの嘲笑』(La derisione di Cristo)などは、結局返還されなかった。1,300点の絵画がルーヴル美術館に「輸出」されたと推定されている。
返還

エルコレ3世はトレヴィーゾへの亡命生活から持ち帰った様々な美術品を売却したが、ナポレオンの略奪を解決しようとするため、コレクションに新たにいくつかの作品を追加した。オーストリア=エステ大公フランチェスコ4世のモデナにおける復位とパリ条約により(1815年)、多くの重要な作品が回収された。かつてエステ家のコレクションに属していた絵画はわずか21点しかモデナに戻らず、加えて新たに2点の絵画がシャルル・ルブランによって報酬として入手された。
教会の地位の低下を背景に、地方貴族の権威を維持する手段として美術品を収集する傾向が高まった。こうしてフランツ4世はエステ家が教会を略奪するといういつもの手法を用いて、近隣の町々から美術館に作品を寄贈した。1822年、初期のイタリア絵画への新たな関心が高まり、トンマーゾ・デッリ・オビッツィ侯爵の豊富なコレクションから、バルナバ・ダ・モデナ、アポロニオ・ディ・ジョヴァンニ、バルトロメオ・ボナッシア、フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリらの作品を含む作品が購入された。息子のフランチェスコ5世も新たに作品を購入し、父の治世中にドゥカーレ宮殿に移転した画廊を再開した[15]。
1859年から現在まで
1859年のイタリア統一によってエステ家の運営による美術館は消滅した。この移行期は必然的に損失や盗難が発生した。新しいイタリア王国の政府を代表してモデナ諸州を治めていたルイジ・カルロ・ファリーニは、ドゥカーレ宮殿に保管されていた貴重品を横領したとして、一部から非難された。当時のドゥカーレ宮殿は政庁の役割を果たし、ファリーニ自身も居住していたが、どのような根拠に基づいてそのような主張がなされたかは、現在も明らかになっていない。
1879年、宮殿は陸軍士官学校の本部となり、美術館はフランチェスコ3世によって建設された18世紀の宮殿への移転を余儀なくされた。現在、この場所はムゼイ宮殿として知られ、1階には宝石博物館、市立博物館、公文書館、3階にはエステンセ図書館が併設されている。
美術館の室内展示は、常に改訂され続ける展示室のキュレーションとともに長年にわたって幾度か変更されている。近年では、2012年5月の地震の後、美術館は3年間の改修期間を経て2015年に再公開された。エステンセ美術館は地元の人々だけでなく、ヴェネツィアからローマへ向かう途中であまり知られていない場所を訪れる観光客にとっても、文化の中心であり続けている[15]。
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ギャラリー
- ジョヴァンニ・ディ・パオロ『幼児キリストの礼拝』1430年-1440年頃
- アポロニオ・ディ・ジョヴァンニ『グリゼルダの物語』1440年頃
- コズメ・トゥーラ『パドヴァの聖アントニウス』1484年–1488年
- フランチェスコ・ビアンキ・フェッラーリ『聖ヒエロニムスと聖フランチェスコをともなうキリストの磔刑』1490年頃
- バルトロメオ・ボナッシア『ピエタ』1475年–1495年頃
- サンドロ・ボッティチェッリ派 『聖母子と洗礼者ヨハネ』1445年-1510年頃
- ドッソ・ドッシ『宮廷道化師の肖像』1510年頃
- ティントレット『アポロンとダフネ』1541年
- パオロ・ヴェロネーゼ『アレクサンドリアの聖メナス』1560年頃
- アンニーバレ・カラッチ『ヴィーナスとキューピッド』16世紀
- ルドヴィコ・カラッチ『聖母被昇天』1607年頃
- グエルチーノ『ヴィーナスとキューピッド、マルス』1633年
- グイド・レーニ『キリストの磔刑』1636年頃
- シャルル・ルブラン『エテロの娘チッポラと結婚するモーセ』1687年
- バルトロメオ・パッサロッティ「老女の頭部」1575年-1580年頃
- ヴィリジェルモ『聖母子』1100年-1120年頃
- ピサネロ レオネッロ・デステのメダル 1440年頃
- ピエール・ヤコポ・アラーリ=ボナコルシ 古代彫刻『棘を抜く少年』の複製 1501年頃
- アントニオ・ベガレッリ『聖母子』1535年頃
- 『エステ家のハープ』1581年
- イグナーツ・エルハーフェン(Ignaz Elhafen)? 『海の風景のある大皿』1670年-1680年
- グリンリング・ギボンズ『イングランド国王チャールズ2世の死の寓意(ヴァニタス)』1685年頃
- ドメニコ・ガッリ(Domenico Galli) チェロ 1691年
- トラーパニの工房『キリスト降誕の場面』18世紀
脚注
参考文献
外部リンク
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