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耶律禿満答児

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耶律 禿満答児(やりつ トゥメンデル、生没年不詳)は、モンゴル帝国に仕えた契丹人の一人。

概要

トゥメンデルはモンゴル帝国草創期の功臣トガン(禿花)の子のバイジュ(買住)の息子で、兄には百家奴、弟には忽林帯がいた。トガンの死後、トガン家では短命もしくは病弱な当主が続いており、トガンの嫡男のジュゲ(朱哥)、ジュゲの子の宝童、ジュゲの弟のバイジュ、バイジュの子の忽林帯・百家奴と、短期間に当主が代わっていた。さらに、百家奴が別の官に移ったことにより、弟のトゥメンデルがの地位を継承し、「成都管軍万戸」として四川方面に駐屯することになった[1][2]

1274年至元11年)にはクドゥ(忽敦)に従って嘉定を攻めるに当たり、平康寨を修復してこれを守った。1275年(至元12年)には汪田哥とともに九頂山を攻略し、都統を一人殺したことでようやく嘉定も陥落した。その後、更に瀘州叙州諸城を下して遂に重慶を包囲し、南宋側の援軍を水軍でもって防いだ。1276年(至元13年)には一度下った瀘州が寝返ったため再び包囲し、重慶が派遣してきた援兵も破った。しかし瀘州の守りは固くなかなか攻略できなかったため、トゥメンデルは夜に兵を率いて水城を奪い、黎明に城壁を上ってようやく陥落させ、王世昌・李都統らを斬った[3]

その後、再び重慶包囲に戻って守将の張玨が率いる軍団を破ったことで、遂に重慶は陥落した。これらの功績により夔州路招討使、四川東道宣慰使、同僉四川等処行枢密院事、四川等処行中書省左丞、行尚書省左丞を歴任した後、亡くなった[4]

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モンゴル帝国の四川駐屯軍

[5]

脚注

参考文献

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