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菅井梅関
江戸時代の文人画家 ウィキペディアから
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菅井 梅関(すがい ばいかん、天明4年10月27日(1784年12月9日) - 天保15年1月11日(1844年2月28日))は江戸時代後期の文人画家。菊田伊洲・東東洋・小池曲江とともに仙台四大画家と称揚される。

略歴
仙台柳町[1]の老舗茶舗「名取屋」を家業とする鈴木氏の長男に生まれた。しかし、幼少より画を好んだので、家督を弟に譲ってひたすら画の修行を行った。日々、菅原道真の神像を描いて励みとし、鈴木姓から菅井姓に改姓。初号を東斎とした。
瑞鳳寺住職の古梁紹岷(南山禅師)に詩・書・画の手ほどきを受け、古梁に従って塩釜・松島に遊ぶ[2]。また遊歴の画人として知られる仙台藩絵師根本常南に就いて画を学び、雙林寺 (渋川市)では「涅槃図」の合作を行っている。更に、南蘋派風の花鳥画や岸派風の虎図、司馬江漢のような洋風画も残しており、様々な流派を貪欲に学んでいたことがわかる。
画才を認めた常南に江戸行を勧められ、谷文晁の門戸を叩いたが文晁の北宗画風が受け入れられず、同郷の画家東東洋を頼って京都に上り、古画の鑑賞や臨模を熱心に行った。骨董商で偶然目にした扇面図に強く惹かれ、この図が長崎に滞在している清の画人江稼圃の作と知るとすぐさま長崎行きを決意。
長崎では稼圃に実力を見いだされ、画法・書法のみならず文人として必要な詩文・経学の知識・教養まで親しく教授された。また弟の江芸閣にも詩・書・画の指導を受けている。以来、京坂を往来しながらも長崎には十数年滞在。木下逸雲・諸熊秋琴・水野眉川・竜梅泉らと交友。長崎に遊歴した田能村竹田や頼山陽とも知り合う。梅関が長崎を辞するとき師の稼圃は梅関に墨梅図を描かせ、後に清国に持ち帰ったという。このとき師の恩義に報いようと号を東斎から梅関に改めた。
文政6年(1823年)頃には大坂御堂筋瓦町に居を構え、頼山陽を中心とする笑社の浦上春琴・篠崎小竹・岡田半江をはじめ、金井烏洲・八木巽処らとも交友。天保元年(1830年)には山陽宅の水西荘にてその居宅風景を描き山陽の詩を添えて「水西荘図巻」として合作した[3]。梅関の山水図は当時釧雲泉と並称されるほど名声があり、また豪快で荒々しい筆致の墨梅図が高く評価された。
母が没し弟が失明したと報を受けて帰郷する。涌谷領主の伊達桂園に仕え、僧・古梁紹岷、画人・東東洋、儒者・大槻磐渓、蘭医・佐々木中沢らよき理解者らと親交を結ぶ。しかし、盲目の弟とその家族を支える生活は厳しく、折からの飢饉も加わって貧窮を堪え忍ばざるを得なかった。このような事情のためか梅関は生涯を独身で過ごした。文人としての矜持をもって過ごすも、支援者・理解者の相次ぐ訃報に接し、ついに心が折れ天保15年(1844年)正月、自ら井戸に身を投げて自殺。享年61。葛岡正雲寺(仙台市)に墓所がある。弟子に養子でもあった菅井田龍など。
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刊行
- 『梅関詩集』
作品
脚注
参考文献
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