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菖蒲塚古墳

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菖蒲塚古墳(あやめづかこふん)は、新潟県新潟市西蒲区竹野町にある古墳。形状は前方後円墳。国の史跡に指定され、鼉龍鏡は新潟県指定有形文化財に指定されている。

概要 菖蒲塚古墳, 所在地 ...
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前方後円墳の北限・南限
1:角塚古墳(太平洋側北限)
2:坊主窪1号墳(日本海側内陸部北限)
3:菖蒲塚古墳(日本海側沿岸部北限)
4:塚崎51号墳(南限)

概要

角田山東麓の台地先端部にある[1]。本古墳は菖蒲山金仙寺境内に所在し、その周辺は「越王」(こしわ)と通称されている所である。 全長53メートル、後円部径33メートル、同高さ3メートルで、前方部高さ2メートルと後円部より前方部が低い。 新潟県内では最大クラスである[1]日本海側で最北端に位置する柄鏡形の古式前方後円墳であり、1930年(昭和5年)に国の史跡に指定された。

内部主体は明らかでない。石室を有しない木棺直葬ではなかったかと推定されている。

沿革

当古墳の最も古い資料としては1812年(文化9年)刊行の「北越奇談」で、盗掘され、鏡が出土したことが記されている。その鏡と伝えられている鼉竜鏡(だりゅうきょう)が新潟県の有形文化財に指定されている。径22.7センチメートル、仿製鏡(ぼうせいきょう)[2]で、古墳時代前期のものと推定されている。 言い伝えにより、古墳の中には源頼政の妻菖蒲御前が葬られた墓とされている。また、隣接する隼人塚古墳には、家臣である猪隼太の墓とされた(古墳の造成時期は、当該古墳と同時期と考えられている。)

2002年2003年に古墳の範囲の確認のために巻町教育委員会が調査を行い、その結果、緩やかな傾斜を持つ台地の上に全体の形を設計した後、周囲に溝を掘り、その際に出た土などで盛り上げて作られた墓であることが判明[1]。その際、土質の異なる土を交互に盛るなどして強化する工夫がなされた[1]

経塚

当古墳の墳丘上には、平安時代から室町時代にかけて経塚が営まれている。経塚から出土した銅製経筒、陶製壺、銅鏡等の遺物は「越後国菖蒲塚古墳経塚出土品」として1962年(昭和37年)に国の重要文化財(考古資料)に指定されている(金仙寺蔵)。

出土品

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鼉龍鏡(新潟県指定文化財)
東京国立博物館展示。
溝から発見[1]。古墳の上から転落したと考えられる[1]。壺の特徴から、古墳時代前期の後半に作られたことが明らかになった[1]
銅鏡
江戸時代に出土しただ龍鏡[1]。直径23.7センチメートルで新潟県内では最大の鏡である[1]。新潟県の有形文化財に指定されている。個人蔵(東京国立博物館に寄託)。
勾玉・管玉
新潟市歴史博物館に保管されている。勾玉(長さ2.3センチメートル)はヒスイ製で1点、碧玉製管玉(長さ1.7~3.4センチメートル)は7点。古墳の後円部の埋葬室内に副葬品として納められていた。国の重要文化財「越後国菖蒲塚古墳経塚出土品」の附(つけたり)指定。

文化財

国の史跡

  • 菖蒲塚古墳 - 1930年(昭和5年)4月25日指定[3]

新潟県指定文化財

  • 有形文化財
    • 鼉龍鏡 越後国菖蒲塚古墳出土 1面(考古資料) - 東京国立博物館寄託。1962年(昭和37年)3月29日指定[4]

関連文化財

  • 越後国菖蒲塚古墳経塚出土品 一括
    国の重要文化財(考古資料)。所有者は金仙寺、新潟市歴史博物館保管。1962年(昭和37年)2月2日指定[5][4]
    平安時代に菖蒲塚古墳上で営まれた経塚からの出土品(附指定の一部は菖蒲塚古墳出土品)。内訳は以下。
    • 銅経筒 1口 - 賀應二年三月十一日在銘。
    • 陶製壺 2口
    • 銅鏡 残闕共 5面分
    • 青白磁小壺 1口
    • 青白磁盒子 1合
    • 附 銅経筒残闕 1口分 - □(亨)禄三天七月廿三日在銘。
    • 附 硬玉勾玉 1箇、碧玉管玉 7箇 - 菖蒲塚古墳出土。

脚注

関連項目

外部リンク

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