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董訢
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事跡
新末後漢初の群雄の一人だが、出身階層や初期の経歴等の詳細は不詳である。
建武2年(26年)、董訢は宛(南陽郡)で漢に叛逆し、南陽太守劉驎を捕虜として立て籠もった。この時、漢の揚化将軍堅鐔が右将軍萬脩ととも南陽平定に従事していたが、堅鐔は決死隊を組織し、夜に自ら宛城内に斬り込んでこれを陥落させた。董訢は故郷の堵郷に逃げ戻っている。
しかし、この時、宛へ向かっていた漢の大司馬呉漢が途中で略奪を働き、故郷の新野(南陽郡)まで荒らされた漢の破虜将軍鄧奉が育陽(南陽郡)で叛逆し、呉漢を撃破した。董訢は鄧奉と同盟して、堅鐔を南北から挟撃、包囲し、1年に渡って困窮させたが、堅鐔は最後まで屈せず戦い抜いている。
同年11月、光武帝は廷尉岑彭を征南大将軍に任命し、8人の将軍を率いさせて董訢を攻撃してくる。そこへ鄧奉が董訢の救援にかけつけ、岑彭以下の漢将を大いに苦戦させた。しかしこれにより、建武3年(27年)3月、ついに光武帝が親征してくる。董訢は別働隊を派遣してそれを阻もうとしたが、岑彭により別働隊は葉県で撃破されてしまう。光武帝が堵陽に到達すると、鄧奉は育陽へ逃走したが、董訢は降伏した。
この後、董訢がどのように処分されたかは不明である。
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参考文献
- 『後漢書』列伝5王常伝
- 同列伝7岑彭伝
- 同列伝12堅鐔伝
関連項目
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