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後漢書

中国後漢朝について書かれた歴史書 ウィキペディアから

後漢書
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後漢書』(ごかんじょ)は、古代中国後漢朝について書かれた歴史書で、二十四史の一つ。紀伝体の体裁を取り、本紀10巻・列伝80巻・志30巻の全120巻からなる。「本紀」「列伝」の編纂者は南朝宋范曄で、「志」の編纂者は西晋司馬彪

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『後漢書』

成立までの経緯

『後漢書』は、范曄が、先行史書を題材として編纂したものである。後漢の歴史を叙述しようという試みは、後漢王朝在世中から行われていた。まず、明帝のときに班固蘭台令史となり、陳宗・尹敏らとともに世祖(光武帝)本紀や列伝・載記20篇を作った[1]。その後、史書撰述の場は蘭台から東観へと移り、安帝の頃に劉珍李尤らが、桓帝の頃に伏無忌・黄景・朱穆らが、霊帝献帝の頃に蔡邕盧植楊彪らが執筆に当たった。ここで編纂された後漢の歴史書は『東観漢記』と呼ばれる[2]

『東観漢記』は『史記』『漢書』とともに「三史」と呼ばれて世に広まったが、同時代の編纂であるため記述に制約がある点、後漢歴代の多数の官吏が編纂にあたったため、一貫性に欠ける点に問題を抱えていた。そこで、徐々に民間で単独の史家の手になる『後漢書』の執筆が試みられるようになった[3]。以下が代表例である[4]

  • 『後漢書』(謝承
  • 『後漢記』(呉の薛瑩
  • 『続漢書』(西晋の司馬彪
  • 『後漢書』(西晋の華嶠、『漢後書』とも)
  • 『後漢書』(東晋の謝沈
  • 『後漢南記』(晋の張瑩、『漢南紀』とも)
  • 『後漢書』(東晋の袁山松

以上はいずれも紀伝体であり、編年体を取るものとしては、東晋の張璠の『後漢紀』、袁宏の『後漢紀』があり、特に後者は古くから范曄『後漢書』と並び称され、完全な形で現存する[5]

范曄は、学問に秀でた范氏一族の伝統を受け継ぎ、幼い頃から学問に長じ、経書・史書に通じ、文章・音楽が得意であった。432年元嘉9年)に左遷されて宣城郡太守になった際、『後漢書』の執筆を思い立った[1]。范曄は、『東観漢記』と『後漢紀』を始めとする以上の先行資料を利用しつつ、完備した後漢の歴史書を執筆しようと試みた。先行資料の取捨選択と、范曄の文章である序・論・賛の部分に范曄『後漢書』の特色が現れている[6]

范曄が編纂したのは本紀と列伝であり、志を編纂する意思はあったが、皇帝への反逆に連座して処刑されたため、著作物として完成できなかった。後に、南朝梁劉昭は、范曄の『後漢書』に、西晋司馬彪が著した『続漢書』の志の部分を併合し、全体に注釈を付けた。ここで、現在の范曄の本紀・列伝と司馬彪の志からなる『後漢書』が成立した[7]

なお、後漢末期の事績についての記述は『三国志』と重複する部分も多いが、成立年代は陳寿『三国志』が、一世紀半先行する。

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構成と本文の概要

要約
視点

『後漢書』は後漢王朝の栄光と衰退を綴ったものであり、文章は名文として名高い。構成についても先行する史書と比べても著しい特色があるとされる。以下、内容を簡単に説明しながら後漢書の構成について記す。

後漢書は時系列に沿って書かれているので、初期・中期・末期に分けて本紀・列伝のそれぞれの巻の概要を説明し、「列女伝」のように後漢王朝一代の女性を網羅したものは末尾にまとめた[注釈 1]

後漢初期(光武帝・明帝・章帝)の時代

まず後漢書の冒頭を飾るのは「光武皇帝紀第一」、すなわち光武帝劉秀の活躍である。十八史略にも採られた昆陽の戦い の描写は精彩を放っている。范曄は光武帝とそれを支えた雲台二十八将及び馬援[8]について列伝の前半でその素晴らしさを綴っている。文選に名文として採用された「光武紀賛」「二十八将伝論」は光武帝と雲台二十八将を称える文章である。
この後漢初期は三代に続いて名君が続き、平和な時代であった。この部分は後漢書の中でも特に有名で、現代日本でも読売新聞の連載小説だった宮城谷昌光の『草原の風』[9]になっていたり、ライトノベル化もされている。[10]朱熹は『東漢総論』において「但だ党錮の諸賢が死に趨りても避けざるは、光武・明・章の烈が為なるを知る」と論じ、後漢中期に衰えゆく王朝を支えた士大夫は後漢初期の名君たちの時代の遺産であると論じている。

後漢中期(外戚・宦官と名士の争い)の時代

しかし、後漢王朝は中頃から貴族政治の弊害が出て、後世の史家・司馬光から「孝和(和帝)以降に及びて貴戚(外戚)・権を擅(ほしいまま)にし、嬖倖(宦官)事を用(おこな)い、賞罰章(あきらか)なる無く、賄賂公行し、賢愚渾殽し、是非顛倒す。乱れたりと謂うべし。」(『資治通鑑』)[11]と評される暗黒時代が訪れる。司馬光がいうように宦官・外戚が政治を牛耳って賄賂や私利私欲の追求に明け暮れた悪政の時代であった。本紀では巻4の「孝和孝殤帝紀」から巻6の「孝順孝沖孝質帝紀」がこの部分に当たり、列伝では巻45「袁安伝」以降がここに当たる。

范曄はこの時代の記述では外戚の暴政に抵抗した袁安、宦官政治を弾劾して疎んぜられた楊震ら貴族(名士)の正義漢を多く取り上げている。范曄はこの部分では後漢名士を褒め称え、名士の儒教に基づく激しい政治批判や反政府運動(党錮の禁への命がけの反対運動)を著しく重視した記載をしている。[12]後漢書の全訳を行った吉川忠夫も「仁義を重んじ、守節をよしとする直線的な行為、烈しい行為への傾倒」への激しい称賛が見られるとしている。[13]また、党錮の禁に抵触した人物を「党錮伝」でまとめている。名士の政治批判は理想論に過ぎないことも多く、実効性を欠くものも多かった。例えば名士の一人宋梟は涼州の民衆反乱の平定を命じられた時に「民衆反乱が起こるのは道徳の乱れからだ。国民全員に『孝経』を読ませて親孝行を奨励すべき」と述べたほどであった。[14]これは後世の人からも「なまぬるすぎる」「迂遠ではないか」と批判された部分[15]だが、范曄はそのまま掲載している。 歴代諸家の評では、この部分は全く評価しない人と絶賛する人に分かれる。例えば江戸時代の儒学者・中井履軒は著書『後漢書雕題』において「後漢には本当の儒者はいなかった。政治に寄与することもなく、文章をもてあそんだだけだ。少しは役に立つこともしたかもしれないが、大したことはできなかった。」と酷評している。[16]一方、同じ江戸時代の儒学者でも吉田松陰は感激して彼らに詩を捧げており、[17]現代中国の毛沢東は「まあ良く書けており、読む価値がある」と評して特に黄瓊伝・李固伝を褒めている。[18]

後漢末期の混乱の時代

後漢中期の外戚・宦官の弊害は是正されないまま後漢はいよいよ末期症状を呈するに至る。

本紀では巻7「孝桓帝紀」から巻9「孝献帝紀」、列伝では巻68「郭符許列伝」以降が末期の人物を描く部分である。いわゆる「東夷伝」の「桓霊の間」と言われる乱世である。倭にも「倭国大乱」と言われる混乱が起きていたが、この頃は中国本土でも黄巾の乱のような民衆反乱が頻発している。後に蜀の劉備諸葛亮がこの時代を回想すると、嘆息し痛惜しないことはなかったという時代であった。(出師表による)三国志演義は陳寿『三国志』の他、范曄『後漢書』の該当部分が元にされているとされる。

范曄『後漢書』は民衆反乱により後漢王朝が衰退し、董卓呂布のような群雄が争った後、献帝を奉じた上で、帝位簒奪を図る曹操が献帝を迫害する描写で終わる。范曄は人間の力を信じ、「これは運命だから仕方がない」というような「あきらめ論」を嫌ったと思われる。[12]だから、曹操に対する後漢高官の抵抗が描かれるが、結局それは実らず、後漢は曹操の子・曹丕により簒奪されて終わる。 この部分では、孔融のように事あるごとに曹操を批判する人物が描かれる。曹操は孔融を憎み、罪に陥れて孔融の幼い子供二人共々処刑するという挙に出た。范曄は孔融を称賛し、「曹操が後漢を乗っ取れなかったのは孔融のような忠臣がいたからだ」としている。[19]

後漢最後の皇帝・献帝の伝記「孝献帝紀」は范曄の絶望を表す以下のような言葉で終わる。

「天の漢の徳に厭きることや久し。」(天は漢王朝を見放してしまった)[12]

後漢書本紀の最後は皇后紀下である。この巻は「孝献帝紀」より更にひときわ悲痛を極める。董卓の部下李儒に毒殺された十八歳の少年皇帝・少帝弁の伝記もここに入っている。毒殺される前の最後の酒宴で少帝弁と妻の唐姫が悲しんで詠んだ歌は、藤田至善が「後漢王朝の挽歌」と評した。[20]藤田が「漢王朝の悲運と、その夫を守り通そうとした一人の悲しい女性」[21]と称した献帝の献穆曹皇后は、後漢王朝の禅譲を強要した兄・曹丕に抵抗し、最後まで玉璽を渡そうとせず、「わたしたちには天運がなかった!(天不祚爾)」と号泣した。左右の人々はみな痛ましさに正視することができなかったという。このように後漢書は悲劇的な結末となっている。

通時代的な列伝(雑伝)

范曄は時系列に沿った上記の本紀・列伝の他、後漢一代を全て網羅した列伝も立てている。これは「雑伝」と呼ばれる。
これは史記の「滑稽伝」「游俠伝」「貨殖伝」などにならったものだが、司馬遷と范曄の考え方が全く違うために列伝の立て方が異なる。その一つが正史で初めての女性の列伝「列女伝」である。列女伝に登場するのも貴族の女性である。逆に司馬遷史記で立てた庶民の活躍を描く「貨殖伝」「游俠伝」などは范曄は立てていない。これは貴族社会を反映したものである。[22]多くの女性が正義を貫いて死んでいく有様が描かれる。当時の儒教では許されない再婚をした蔡琰を列伝に載せて称賛したことは、後世、宋の蘇洵から「蔡琰のような貞操を欠いた女を正史に載せるべきではない」と批判されているが、現代としてはむしろ范曄のほうが評価されるのではないか、と本田済はしている。[12]

この他、後漢末期の戦乱を避けた人々を描く「逸民伝」「独行伝」、文学者たちをまとめた「文苑伝」なども作られている。

逆に范曄が重んじた貴族主義の立場から、庶民の歴史は捨て去られた。このため司馬遷が作っていた庶民の活躍を描く「滑稽伝」「游俠伝」「貨殖伝」などの列伝は作られなかった。范曄はこれらの列伝の削除について何も語っていない。金の王若虚は范曄の意図を推察し、「史書は勧戒を宗とし、必要性があることだけを記載すれば良い。滑稽伝や游俠伝は勧戒の意味がなく、貨殖伝に書かれる市井の卑しい人のわざなど、史書に記載する必要がないからだ」としている。[12]

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注釈と日本語化

要約
視点
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後漢書
南宋紹興年間の版本。李賢注。

注釈

范曄『後漢書』はすぐに普及し、南北朝において広く読まれていた。南朝梁の劉昭注など、注釈にも様々なものが生まれていた[23]。ただし、劉昭の注は当時、劉知幾から「范曄が捨て去ったカスばかりを拾い、どうでもいいことばかりを注釈している」と酷評されるなど甚だ評判が悪かった。劉昭は三国志の裴松之注を真似て後漢書に載っていない話を積極的に注釈としたが、唐代の人からすればこういう方向は軽蔑されるもので、新たな注が必要とされていた。このため北魏劉芳による音注や、隋の蕭該『范漢音』など、音訓の注は劉昭注に対抗して多く作られていた。この中で蕭該『范漢音』は評判が良かったという。[24]

高宗のとき、章懐太子李賢が、学者を集めて范曄『後漢書』の注釈を作成した。これを李賢注(もしくは章懐注)という。これは范曄の本紀・列伝部分に附された注釈であり、蕭該『范漢音』や顔師古の漢書注などに基づいた『後漢書』の語句に対する解釈と、『後漢書』に書かれていない史実を補う注釈の二つを兼ね備えたものであった[25]。李賢注は皇太子が自ら行った注ということもあり権威を得、李賢注の成立によって、『後漢書』は本紀・列伝は李賢注、志は劉昭注を附した形が一般的となった。ただし、李賢注は顔師古注などを引用する時に取り違えている所もあるとされる。[26]

清代に入り考証学が発展すると、恵棟の『後漢書補注』、侯康の『後漢書補注続』などが作られ、これらを包摂して王先謙の『後漢書集解』が作られた。

日本語化(訓点の付加\訓み下し文\現代日本語訳)

白文+返り点(江戸時代)

後漢書については、江戸時代の和刻本で「白文に、『返り点』のみを付したもの」が存在したが(汲古書院から1992年に翻刻)、専門家(漢学者など)を除く日本人の漢文訓読の素養では読解困難であった。

抄訳(昭和期)

昭和期には、後漢書の全文の日本語化はなされず、抄訳(抜粋版)のみが刊行された。具体的には、藤田至善 訳(明徳出版社)、本田済 訳『漢書・後漢書・三国志列伝選』(平凡社中国古典文学大系の1冊、のち普及版「中国の古典シリーズ」)の2点である。

全訳(平成期以降)

吉川忠夫 版

2001年(平成13年)から2007年(平成19年)にかけ、吉川忠夫による後漢書全文[注釈 2]の「訓注を付した原文+日本語読み下し」(全10巻+別冊〈人名索引・地名索引〉1巻)が岩波書店から刊行され、遂に日本人が後漢書の全文を容易に読めるようになった。

渡邉義浩 版

さらに、2001年(平成13年)から2016年(平成28年)にかけ、渡邉義浩(主編)による後漢書全文の「訓注を付した原文+日本語読み下し+現代日本語訳」(全18巻+別冊1巻)が汲古書院から刊行され、日本人が後漢書の全文の現代日本語訳を容易に読めるようになった。

汲古書院版は1冊が1万2千円(本体価格)と高価であったが、訓注を付した原文と日本語読み下しを省いた「現代日本語訳」(全12巻[27]、1冊が 1千円〈本体価格〉程度)が、早稲田文庫(早稲田大学出版部)から順次刊行されている。

評価

范曄は『後漢書』を高い自負を持って著し、自らの遺書である『諸甥姪に与うる書』題名の訓読は[28] に於いて「私の後漢書は漢書より博覧性は低いが内容は勝っている。特に序・論は賈誼よりも優れており、賛は私の文の中でも傑作で一字の無駄もない。昔からの史書と比較しても構成が雄大で意味が深長なことはわたしの後漢書以上のものは存在しない」と論述した。[29]この范曄の大言壮語は「漢書より上だ」ということを除き、後世の史家による判定で、定まった評価を得ている。一例では、唐の劉知幾は『史通』で范曄の『後漢書』を高く評価している。

後世には、八家後漢書がほぼ散逸し、袁宏『後漢紀』は残ったが、章懐太子は、これに対して范曄の『後漢書』を高く評価したものといえる。

後漢末についての記述は、蜀漢に立場の近い南朝で編纂されたため、西晋で編纂された先行する陳寿の『三国志』に比べて、曹操の悪事を強調した記述を採用する傾向にある。范曄の『後漢書』の曹操悪人説は、趙翼二十二史箚記で「范曄は陳寿が西晋朝をはばかって微妙な書き方をしている曹操の悪事を暴いた真実の書である」と評価したことから有名になったが、現代では趙翼の主張や范曄の『後漢書』の史料編纂に疑問の声も投げかけられており、曹操の評価の回復が見られる[30]

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版本について

范曄『後漢書』は版本ごとの異同・誤刻が非常に多く、張元済によれば4914箇所もあるという。これは、『史記』(異同約4900箇所)とほぼ同じであり、『漢書』(異同4449箇所)『三国志』(異同4605箇所)と比べても多い。誤刻の例を挙げると、『光武帝紀上下』のみでも有名な「中元二年、春正月。(中略)東夷の倭奴国王、使を遣わして奉献す」の箇所も「東夷倭奴国」と宋本(南宋紹興本)では誤刻している。
[31]

主要な版本は以下の通り。

  • 南宋紹興本。下記の黄善夫本(上杉本)とは異なる。百衲本で「宋本」としているのはこれのことである。
  • 南宋黄善夫本。上杉博物館所蔵。米沢藩家老直江兼続の旧蔵本で国宝に指定されている。黄善夫という学者が自分の書院で出版したもので善本とされる。[32]
  • 元の大徳年間刊行本。
  • 明の汲古閣本。善本とされる。
  • 清の武英殿版。いわゆる「殿版・殿本」。四庫全書所収本だが、汲古閣本を元に復刻した。弁韓を「下韓」と書くなど誤りが多い。これは張元済によると汲古閣本が「辯韓」を略して「弁韓」と書くべきところを「卞韓」と宛て字で表記し、武英殿版は「卞」の字を「下」に誤ってしまったものだという。[33]
  • 張元済百衲本。
  • 中華書局本。張元済百衲本を元にしてさらに校訂したもの。
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全巻の目録

要約
視点

目録も版本により光武帝紀を上下に分けるか分けないかなど、異同があるが、中華書局版によって題目を示す。[34]

本紀

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列伝

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大秦王安敦

西域伝の大秦国記事に桓帝延熹9年(166年) 日南から象牙タイマイなどをもった「大秦王安敦」の使者がきたと記述されている。この「大秦王安敦」はローマ帝国皇帝のマルクス・アウレリウス・アントニヌスとの説があるが、確かではない。

日本との関係

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国会図書館デジタルコレクション
『後漢書』東夷伝の倭国を記した部分。寛永前期に日本で木版印刷された本。

日本への伝来

9世紀末の平安時代に存在した漢籍の情報を伝える藤原佐世日本国見在書目録』には、『後漢書』が記録されている[35]

後漢書九十二巻。宋の太子詹事范曄撰。麁本。
後漢書百三十巻。唐の李賢太子。但し志三十巻は梁の剡令劉昭の注と補。
范曄音訓三巻。陳の宗道先生臧兢なり。
范漢音三巻。蕭詠撰。藤原佐世、日本国見在書目録

この頃には、遣唐使などを通して日本にも『後漢書』が将来していたことが分かる。

倭国について

『後漢書』東夷列伝の中に(後の日本)について記述があり、古代日本の史料になっている。この「倭条」(いわゆる「後漢書倭伝」)は、280年代成立とされる『三国志』の「魏書」東夷伝倭人条(いわゆる「魏志倭人伝」)を基にした記述とされている。

魏志倭人伝」にない記述として、建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 とあり、建武中元二年(57年)に倭奴国が朝貢したとされている。このとき光武帝が与えた金印(漢委奴国王印)が福岡県志賀島で出土している。また、安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 ともあり、永初元年(107年)に倭国王帥升 が人材(労働者か)を百六十人献上したとされている。これが史料に出てくる名前が分かる初めての倭人と言うことになるが、一文のみであり、詳しいことは分かっていない。また「魏志倭人伝」に年代の指定がない倭国大乱(魏志は「倭国乱」とする)についても桓帝霊帝の間(147年 - 189年)と、大まかではあるが年代の指定がある。

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主な訳注書

参考文献

  • 吉川忠夫「范曄と『後漢書』」『読書雑志 : 中国の史書と宗教をめぐる十二章』岩波書店、2010年。ISBN 9784000241496
  • 張元済『百衲本後漢書校勘記』商務印書館、1999
  • 陳夢雷 編『古今図書集成』「第379巻 後漢書部」
  • 本田済編訳『漢書・後漢書・三国志 列伝選』平凡社中国古典文学大系、1968、復刊1994
  • 藤田至善『後漢書 中国古典新書』明徳出版社、1970
  • 顧頡剛口述『中国史学入門』研文出版、1987
  • 安岡正篤『三国志と人間学』福村出版、1987
  • 『週刊朝日百科 日本の国宝050【国所蔵/国立歴史民俗博物館・東京芸術大学・東北大学・京都大学】』朝日新聞社 1998
  • 高島俊男『三国志 きらめく群像』ちくま文庫、2001
  • 渡邉義浩・池田雅典・洲脇武志「『後漢書』李賢注に引く『前書音義』について」, 大東文化大学紀要『人文科学』9 284-268, 2004-03. 大東文化大学人文科学研究所
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脚注

関連項目

外部リンク

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