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角谷美知夫
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角谷 美知夫(かどたに みちお、1959年5月14日[1] - 1990年8月5日[1])は、日本のギタリスト、ボーカリスト、シンガーソングライター、宅録音楽家、詩人。サイケデリック・ロックバンド「腐っていくテレパシーズ」リーダー。角谷 美智夫、角谷 未知夫とも表記される。
精神分裂病(現・統合失調症)[2]に起因する幻覚や幻聴を創作に反映させた唯一無二の作風で知られる。1979年前後の吉祥寺マイナー周辺で頭角を現し、1980年代初頭の日本アンダーグラウンド・シーンにおいて特異な存在感を示した[3]。オーバードーズにより31歳で夭折した後も、没後に編まれたP.S.F.の追悼盤により伝説的なアーティストとして語り継がれている[4]。
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経歴
要約
視点
1959年に山口県宇部市で生まれる[1]。裕福な家庭に育つが[5]、1974年に中学を中退後、登校拒否状態が続く[1][6]。1977年に上京。以降は不定期に山口と東京を往復したほか、大阪や九州など各地を訪れた[1]。パンクスになる以前はヒッピー的な生活を送っていたとされ[1]、ヘルハウスと呼ばれた中島らもの自宅にも鈴木創士や五庵保典と共によく出入りしていた[6][7]。
1978年から工藤冬里や大村礼子と共に音楽活動を開始[1]。1979年に田中トシらと「オッド・ジョン」[注 1]を結成し、ライヴスペース「吉祥寺マイナー」を中心に活動する[3]。1979年2月~3月にかけてマイナー主催のシリーズコンサート「うごめく・気配・きず」に参加するも、バンドは短期間で自然消滅し、その後は自身の中核プロジェクトとなる「腐っていくテレパシーズ」(1979年結成)へと活動の軸足を移した。
腐っていくテレパシーズは固定編成を持たず、山崎春美、坂本哲也[注 2]、工藤冬里、南條麻人、金子寿徳ら多数のミュージシャンが入れ替わり参加した流動的なバンドであり、全曲即興演奏を基盤とした[10]。活動は断続的で中断も多かったが、その創作姿勢は一貫しており[10]、精神分裂病に伴う幻覚や霊的感覚を直接音に変換したような、どうしようもなく崩れ落ちていく陰鬱きわまりないサイケデリック・ロックは「他に例えようもない、特異な感性から放射される音霊」とも評された[11]。
1984年には表立った活動が減少し、秋に山口へ帰郷[1]。精神的な不調はこの時期に始まったものではなく、1979年頃から続いていたとされる[1][12]。本人は自らの活動について「俺はロックの病理をやってるんだ」と語っていた[1]。
1987年、山口で「S・P・Y」(ソーシャル・ペイン・ユース)というバンドにギタリストとして参加。本人の言によれば「暗い」バンドで、1988年まで在籍した[1]。1989年に再び東京へ戻るが、公的な音楽活動は行わず、作曲や詩作に専念した[1]。しかし1980年代後半から重度の躁鬱症状や幻覚・幻聴に加えて、ジヒドロコデインリン酸塩が配合された鎮咳去痰薬の乱用が進行[注 3][5]。一度もメジャーシーンからの注目を集めることはなく、1990年8月5日、オーバードーズによる膵臓炎のため31歳で急逝した[1]。
1991年6月、東玲子(元メルツバウ)の企画・編集により、生前の宅録やライブ音源をアンソロジー的に収録した追悼盤『腐っていくテレパシーズ』がPSFレコードからリリースされた[4]。今日では「日本のサイケ名盤のひとつ」としてカルト的な評価を受けている。
以後、30年以上にわたり目立った情報更新はなかったが、2025年8月にTACOの森田潤が主宰する自主レーベル「Wine and Dine」から2ndアルバム『'87 KAD 3:4:5:6』が突如リリースされた[2][13]。内容は中島らもの遺品から再発見された1987年制作の未発表デモテープの完全復刻版となっており[2]、ボーナス・トラックとして中島らもや鈴木創士らが参加したセッション「ケ・ス・ク・セ」を収録している[注 4]。同年9月26日には、ライブストリーミング放送局『DOMMUNE』で特集番組「角谷美知夫『'87 KAD 3:4:5:6』~テレパシーの真実」が放送された。同番組では東玲子、鈴木創士、山崎春美ら知己朋友が出演し、これまで虚実ないまぜに語られてきた角谷の実像に迫る内容となった[15]。
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評価
生前はノイジーでフリーフォームなギターと、その時の精神状態に応じて変化する不安定なボーカルを特徴とした[10]。彼の表現は主として言葉を源泉とし、発語のリズムがそのままギターの反復やドラムマシンのパターンへと接続されていったという[15]。
自宅録音ではドラムマシンを多用した。ドラマーと組んだ時期もあったが長続きせず、嗜好というより制作上の必然に近かったようである[15]。まだ「ローファイ」という用語が一般化する以前のことであり、バブル期のハイエンド志向に対置される宅録的な質感は、当時でもローテクに映った[15]。しかし、それにより生み出される特異なサウンドは、角谷の音楽性を象徴する重要な要素となっている[15]。
音楽家の南條麻人は、角谷について「即興性の強いサイケデリック・パンクを自然に表現できる、誰よりも優れた才能とセンスの持ち主」であったと述べている[10]。その上で「日本では唯一の本物のパンクであり続けた、日本のアンダーグラウンド界でも稀な純粋な詩人であり、音楽家であった」「常に脆い精神状態で居て、躁鬱病に悩まされ、幻覚、幻聴と闘いながらも、音楽だけは最後までやり続けた角谷美知夫の存在は本物である」と評価した[10]。南條によれば、角谷の詩と音は偽りのない表現であり、忘却されつつあるロックの知性とリアリティーを体現していたという[10]。その音楽性について「不条理を越えた恐るべき純粋な世界」「紛れもないオリジナリティー溢れる彼の分身としての音群」「脆いまでにギリギリの所まで登りつめたサイケデリックな世界を形成しており、鬱と躁の谷間で、もがき苦しんでいる角谷のリアリティー溢れる叫び」と南條は記している[10]。 森田潤も「生き煩わしさをそのまま音に表すことは、後戻りのできない絶対的な賭けだ。殆どの人間はそんな事をできやしない。角谷は言い訳を必要とせずに、ひとつの強力な現実を形作る事ができる、稀有な才覚の持ち主であった」と評した[2]。
東玲子は、角谷の没後の評価に関して「自らの生き方を貫いた人物」として一般的に捉える向きがあるとしながらも、人間は何かを完全に貫き通すことはできず、どこにも至れない思いを抱えながら生きざるを得ない存在と述べ、この点は角谷も理解していたとしている。そのため、仮に終わりを望むような発言をしたとしても、角谷は最後まで「死にたい」という言葉を直接は用いなかったと証言している[16]。
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人物
鈴木創士によれば、初期の風貌はボブカットで、のちにモヒカン刈り[注 5]になり、パンクス的な風貌をまとうようになった[7]。特に鈴木が出会った頃(1980年前後)の角谷は、ドイツ・ロマン派小説の美少年を思わせる風貌と雰囲気を漂わせており、具体的にはノヴァーリスの小説『青い花』に登場する、繊細で夢想的な少年詩人・ハインリヒ[7]、あるいは角谷と同郷の詩人・中原中也を連想したという[15]。一方で山崎春美は、江戸時代後期の国学者・平田篤胤が『仙境異聞』に記した「天狗小僧」こと寅吉少年を想起したと語っている[15]。
当時の角谷は「ダメだ! 悪いのは医者と軍隊だ」という口癖[注 6]をよく繰り返したり、ある時は「世界が突然裏返る。手袋を裏返すように」と語ったりするなど、独自の言語感覚を持っていたとされる[7]。鈴木は「彼の頭脳は必然的にサイケデリックである。彼は考える人だった。その姿はまさにロダンの彫刻だったし、それはロダンと違って極彩色に塗りたくられたりした」と記している[7]。
中島らもによる人物描写について
角谷の人物像については、中島らものエッセイ『アマニタ・パンセリナ』(1995年)や自伝的私小説『バンド・オブ・ザ・ナイト』(2000年)に登場する「分裂病のカドくん」あるいは彼をモデルにした架空の人物「ガド君」としての描写が広く知られている[4]。ただし中島の著作における角谷の描写は事実と虚構が混在しており、例えば「精神病院を出入りしていた」「コードが弾けなかった」といった逸話は事実と異なるとされる[4]。東玲子の証言によれば、角谷の精神科入院歴は一度のみで、暴力的性格や知的欠如を示す言動もなかったという[4][17]。
また中島の著作では、角谷が「ペグの一つ取れた“ぶっ壊れた”五弦ギター」を用い、チューニングもせず弦を叩きつけるだけの奏法しか知らなかったかのように描かれているが、工藤冬里の証言によれば、一番細い弦をわざと外し、ディストーションをかけて塊状の音を出す工夫だったとしている[4]。実際の角谷はコード演奏も可能であり、カバー曲も通常のエイトビートでこなせたという。これらの点から、東玲子は「中島らもの著作から角谷美知夫を知ろうとしても無効だ」と述べている[4]。
ディスコグラフィ
- CDアルバム(角谷美知夫名義)
- ブートレグ(腐っていくテレパシーズ名義)
1996年、南條麻人が運営していたインディーズ・カセットレーベル「La Musica Records」からカセット・アルバム『Rotting Tapes』Vol.I〜IVが「腐っていくテレパシーズ」名義で計4本リリースされた。これらの作品は、角谷と南條が1982年に「腐っていくテレパシーズ」として行ったライヴ音源を収録したものである。全曲即興演奏で構成されており、ノイズ・フリージャズ・アバンギャルド・パンク・サイケデリックなどが入り混じったサウンドを特徴としている。2001年には、同レーベルより工藤冬里の4枚組CD-Rセット『Tori Kudo Tapes』がリリースされ、CDディスク1の5曲目に1981年のライヴ音源が特別収録された。
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脚注
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