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谷次亨
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谷 次亨(こく じきょう)は、中華民国、満州国の政治家。満州国で民生部大臣、交通部大臣などの要職をつとめた。名は嘉年だが、字の次亨で知られる。
事跡
日本に留学し、東京高等師範学校を卒業。帰国後は満鉄の嘱託となり、さらに奉天省塩運総局長、本渓湖煤鉄公司秘書などを歴任した。
満州国建国後は、国務院人事処調査科長、文教部嘱託、民政部警務司外事兼保安科長、安東省教育庁庁長を歴任している。1937年(康徳4年)、満州国の機構改革とともに、総務庁次長に抜擢された。1940年(康徳7年、昭和15年)10月、大阪で開催された興亜厚生大会に満洲帝国代表として出席。1941年(康徳8年)1月[1]、要人の大規模な世代交代に伴い、民生部大臣となる。1942年(康徳9年)9月、交通部大臣に異動した。谷次亨は日本語に精通しており、また、関東軍からの信任も厚かった。谷は関東軍の司令部をしばしば訪問し、中国人の思想動向を報告していたとされる。
満州国が滅亡すると、谷次亨はソ連軍に逮捕され、シベリアに連行・収監された。1950年8月、中華人民共和国に引き渡され撫順戦犯管理所に収監される。後に特赦を受け、長春市図書館で勤務した。
1977年、長春で病没。享年80。
注
参考文献
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