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赤井東海

江戸時代後期の儒学者、漢学者 ウィキペディアから

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赤井 東海(あかい とうかい、天明7年[1][注 1]1787年)- 文久2年11月14日[1][注 2]1863年1月3日))は、江戸時代後期の儒学者漢学者高松藩儒。名・縄(強)、字・士巽、通称・秀之助、巌三[2][3]。号・東海[2][3]

経歴

高松藩士・赤井十郎左衛門直通の嫡子として生まれる[1]。武術を好んでいたが、二十歳頃に学問の道を志し、家督を弟に譲って江戸に出て古賀精里に入門し、昌平黌でも学んだ[1][2]

5年間の学びの後、文化10年(1813年)昌平黌を出て開塾[1][2]文政12年(1829年)高松藩に十人扶持で仕官して世子の侍読となり[2]、使番として百俵を賜るまで累進した[1]尚歯会に加わり[3]渡辺崋山高野長英とも交際し、洋学の必要性を認め、高松藩執政に対して藩内の子弟に洋学を学ばせることを勧めた[1]

学風は朱子学を元とし諸家の説を折衷したもので、進歩的開化思想も持っていた[1][2]。墓所は青山霊園

著作

  • 『四経質疑』
  • 『学庸質疑』
  • 『戦国策遺考』
  • 『海防論』
  • 『東海文鈔』
  • 『昔昔春秋』青藜閣 : 名山閣、1800年。

親族

脚注

参考文献

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