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赤黒旗
赤と黒の二色旗 ウィキペディアから
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赤黒旗(せきこっき)とは、赤と黒の2色で構成される旗である。
赤黒旗と呼ばれる旗には、主に2つの種類が存在する。一方は斜めに分割され、左上に赤、右下に黒が配置されたアナルコ・サンディカリスム(無政府組合主義)や無政府共産主義の旗、もう一方は上部に赤、下部に黒が配置されたウクライナ民族主義のシンボルである。
アナルコ・サンディカリズムの赤黒旗
→「it:Bandiera rosso-nera」も参照
起源

社会理論家・アナーキストのマレー・ブックチンは、この旗の起源はスペインにあると主張していた。[1]実際、スペインの全国労働者連合は、少なくともスペイン内戦の時期からこれを使用していた。だが現在ではこの説は否定されている。この2色が現代と同じ意味で使われた最古の記録は、1874年のボローニャ蜂起における「アナーキストが赤と黒の帽子を被っていた」という記述である[2][3]。また、1877年に同様の反乱が南イタリア・カゼルタ県のレティーノで発生した際、現代と同じ赤黒旗が掲げられていた[2][4]。
アナルコ・サンディカリストによる使用
20世紀に入ると、この旗はアナルコ・サンディカリズムの旗として使われるようになった。
スペイン内戦においては、赤黒旗はイベリア・アナーキスト連盟(CNT-FAI)の軍旗として使われた[注釈 1]。
現代での使用

時が経つにつれて、この旗はアナキズムの標準的なシンボルとなった。黒は依然として無政府主義を、赤は社会的な協力や連帯を象徴し、アナキズムの目的と手段を最もよく表しているとされる[2]。
アナキズムは近代国家の柱の一つとみなされる軍事制度の存在そのものに反対する思想であり、常に反国家主義や平和主義と結びついている[5]。そのため、反戦デモなどで赤黒旗が使用されることも少なくない。
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ウクライナ民族主義の赤黒旗

起源
ウクライナの歴史家・旗章学者であるアンドリーイ・グレチロは、この配色はザポロージエ・コサックに由来すると主張している。その根拠として、イリヤ・レーピンの『ザポロージャ・コサックの返書』の兵士の背後に黄色と青の旗と赤と黒の旗が描かれていることが挙げられる[6][7]。
それ以前からも、赤と黒の2色はウクライナ人にとって親しみのある色だった。服の刺繍や結婚式のタオル、ピサンカにもこの色がよく使われていた。だが、第一次世界大戦の最中に編成されたウクライナ・シーチ銃兵隊の影響で、この色は政治的な意味を持つようになった。銃兵隊は軍服にこの配色で刺繍を施し、またこの色をテーマにした歌も歌われた[8]。
OUN-Bによる色の使用

ウクライナ民族主義者組織が1938年に分裂した際、その一方であるバンデーラ派(OUN-B)は、もう一方のメーリヌィク派(ONU-M)との差別化のため独自のシンボルを作成しようとした。OUN-Bは1941年4月にドイツ領ポーランドのクラカウで大総会を行い、その決議で「中央ラーダで導入された形のヴォロディームィル大王の三叉戟(トリズブ)」と「黒と赤の独自の組織旗」のみを使用することを決定した[9]。
ウクライナ蜂起軍
1942年、OUN-Bの主導でパルチザン・レジスタンス組織であるウクライナ蜂起軍が結成された。その軍旗として赤黒旗が使用された。ウクライナ蜂起軍は一時ドイツ軍と協力関係を築いたほか、ポーランド人の民族浄化やユダヤ人虐殺への関与をしていたことが明らかとなっており、ウクライナの赤黒旗が「ネオナチのシンボル」として扱われる一因にもなっている[10]。
現在
ウクライナの赤黒旗は1991年の独立以降、広く使用されるようになり、ウクライナ民族主義の共通のシンボルとなった[11]。また、ロシアによるウクライナ侵攻が勃発してからは、この旗は非公式の軍のシンボル・軍旗として使用された。
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脚注
注釈
関連項目
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