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週刊明星
日本の週刊誌 ウィキペディアから
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週刊明星(しゅうかんみょうじょう)は、集英社が発行していた週刊誌。1958年7月27日 創刊、1991年12月26日 終刊。特に芸能週刊誌として人気を集めた。
創刊
1956年の『週刊新潮』に始まって出版社系週刊誌の創刊が相次ぎ、1952年に月刊誌『明星』を創刊した集英社では、1957年12月に『週刊明星』の創刊準備室を発足させ、『明星』を成功させた本郷保雄が編集長、社外から室伏哲郎、永田久光を招き、編集方針は若い読者層を狙った『週刊新潮』のジュニア版とした。
創刊号の1958年7月27日号は、若者に一番人気のある作家ということで三島由紀夫のエッセイ「不道徳教育講座」の連載、及び連載小説に獅子文六、石坂洋次郎、柴田錬三郎、松本清張の4人の人気作家、随筆に石川達三、金田正一と長嶋茂雄の対談というラインナップとなった。また特集記事のライターとして、草柳大蔵と、梶山季之を起用した。
梶山季之の活躍
『文藝春秋』と並行してライターとしてスタートしたばかりだった梶山は、警察官職務執行法改正案(令状なくしての捜索や、予防拘禁が可能という条文があった)に関する、1958年11月9日号掲載の記事「またコワくなる警察官―デートも邪魔する警職法!」によってセンセーションを巻き起こし、芸能週刊誌のイメージを覆した[要出典]。 続く11月16日号では、記者が掴んだ皇太子妃決定のニュースを、報道協定[注 1]を破ってスクープ掲載する準備を進めていた。しかし締切り前日に東宮教育係の小泉信三から記事の見合わせを依頼され、代わりに梶山が一晩で書き上げた「話題小説 皇太子の恋」を掲載した。直後にAP通信が正田美智子の名前を発信し、続いて『週刊実話』も名前入り記事を掲載した。週刊明星は次の11月23日号で、「皇太子妃内定?! 正田美智子さん」と題した記事を、写真の充実した内容で掲載。これには大きな反響があり、60万部を発行し、その9割を売り上げた[要出典]。11月27日には宮内庁から皇太子の婚約が発表された[2]。しかしこのスクープは業界内では抜け駆けと言われ、その後は発行部数も低迷した[要出典]。その後、草柳は『女性自身』へ、梶山は『週刊文春』へと活躍の場を移した[要出典]。
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路線変更
1959年に『週刊平凡』が創刊されて部数で追い越されると、1960年からは編集長も変わり、芸能週刊誌に方針を変更する。スターの結婚記事の多さで『週刊結婚』などとも呼ばれるが、発行部数は伸びて、昭和40年代には100万部を突破し、週刊誌のトップとなった。1977年でも『週刊プレイボーイ』に次ぐ65万部としている。
掲載作品
小説・エッセイ
漫画
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不祥事
脚注
参考文献
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