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道宗 (真宗門徒)

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道宗(どうしゅう、生年不詳 - 1516年)は、室町時代後期の浄土真宗信徒。俗名は弥七または弥七郎越中国五箇山赤尾谷の出身であることから赤尾の道宗とも称される。

蓮如の教化を受け、浄土真宗の教えに傾倒し、自ら道場を開いて信仰の宣揚を図った。蓮如の御文を書写するとともに「道宗二十一箇条」を定め、真宗の信徒としてあるべき道を極めることを試みた。行徳寺南砺市西赤尾)や道善寺(南砺市新屋)の開基となったと伝えられている。早くから往生人の一人に数えられ、後世妙好人の代表とされた。

生没年

道宗の生没年について、没年に関してのみは後述の『実悟記』により永正13年(1516年)に亡くなったことが明らかである[1][2]。一方、生年については記録がなく、享年については様々な後世の伝承があるため、諸説あって定説が確立されていないのが現状である[3]

古くから知られているのは行徳寺の寺伝に基づく享年65歳説であり、最も早く道宗に関する研究を行った橋川正は「延徳3年の蓮如との出会い時点で30歳未満」という同時代の記録に基づき、「道宗は天文年間初めに65歳で没した」と論じた[4]。しかし橋川以後の研究者は『実悟記』所載の「道宗永正13年没」が「延徳3年の蓮如との出会い時点で30歳未満」と上手く整合しないことを重視し、「享年65歳説」を誤伝と見なす見解が主流である[5]

これに対し、多くの研究者が支持するのが『越中赤尾道宗物語』に基づく享年55歳説で、これと「永正13年没」を合わせると延徳3年時点で29歳となり、同時代史料の記録とよく合致する[6]。また、この史料は江戸時代中期の成立であることが明らかであり、行徳寺寺伝よりも古い成立であると見られることも、享年55歳説が支持される理由の一つである[7]

近年では、金龍静が道善寺所蔵『東赤尾村道宗一代記』の記録に基づき、享録4年(1531年)2月20日に亡くなったとする説を紹介している[2]。同じく道善寺所蔵の『天十物語』では晩年の道宗が「没後の信心のことは瑞泉寺賢心に問え」と述べたと記されているが、賢心は永正13年時点で27歳、享禄4年時点で42歳のため、この所伝が正しければ享禄4年没が自然となる[2]

以上の諸説を踏まえ、2022年に出版された『妙好人が生きる とやまの念仏者たち』などでは享年55歳説に基づいて「1462年生〜1516年没」とした上で、65歳死去説が別にあることを注記する形をとっている[8]

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同時代史料での道宗

要約
視点

道宗登場前の五箇山

五箇山内での伝承によると、本願寺第五代の綽如が井波瑞泉寺開基のため越中に滞在していた際、五箇山にも訪れて布教を行ったという[9]。ただし、実際に五箇山内で真宗の記録が残り始めるのは本願寺8代蓮如越前国吉崎御坊に滞在して以後のこととのため、実際に綽如が五箇山まで訪れたかは疑問視されている[10]

最初に五箇山地方に教線を伸ばしたのは越前国の和田本覚寺で、道宗の伯父の赤尾谷出身の浄徳という僧は、本覚寺門徒であったと考えられている[11]。五箇山地方には元来、熊野権現信仰(新屋道善寺)、阿弥陀如来信仰(上梨白山宮)などがあり、これらの汎浄土宗的信仰持つ者達を対象として真宗の布教が行われた[11]

蓮如の吉崎滞在によって北陸地方では真宗門徒が急速に増えつつあったが、蓮如自身が「この吉崎の山中に参詣せらるる面々の心中のとをり、いかがとこころもとなくさふらふ」と評したように、必ずしも真宗の正確な理解されていたわけではなかった[12]。このような中で、真宗の教えを真摯に実践し、布教に努めた在地の人物こそが道宗であった[12]

蓮如への師事

道宗が真宗の教えに帰依するに至った経緯について、後世の伝承では様々に語られているが、同時代史料としては下記の行徳寺所蔵蓮如御文が最も重要で基本的史料となる[13][14]

ちかごろの事にてやありけん。ここに越中国赤尾の浄徳といふものの甥に、弥七といいしをとこありけるが、年はいまだ三十にたらざりしものなりけるが、後生を大事と思て、仏法に心をかけたるものなり。然れば此六年のさきより当年まで、毎年上洛せしめて、其内に年をとる事六年なり。かの男のいはく、当流の安心のやうかたのごとく聴聞仕り候といへども、国へくだりて人をすすめけるに、さらに人々承引せざるあひだ、一筆安心のをもむきを、ふみにしるしてたまはるべき由しきりに所望せしめて、田舎へまかりくだりて、人々にまふしきしめんと申すあひだ、これをかきくだすものなり。『蓮如御文』明応5年2月28日条[13][14]

この御文によると、「越中国赤尾の浄徳の甥である弥七(=道宗)は、30歳未満の時に蓮如に面謁し、それから6年にわたって毎年上洛した後、明応5年(1496年)2月28日に御文を下された」という。また、これとは別に『捨塵記』には長享年間1487年-1489年)に道宗が蓮如に面謁したとの記録もある[7]。いずれにせよ、道宗が蓮如に面謁し教えを受けたのは、蓮如晩年の山科本願寺在住時代(1483年-1532年)のことであった。

なお、「道宗が30歳未満であった」時点を「御文が下された明応5年時点」と見る説と、「初めて蓮如と面謁した延徳3年時点」と見る説の二通りがあるが、先述したように「永正13年に55歳で死去」の説にあわせて「延徳3年時点で29歳であった」と解釈する見解が主流である[15]

蓮如御文に見られる徳行

『蓮如上人御一代聞書』では3箇所において道宗について言及されており、これらの記述が後世の道宗伝承の基盤となっている。

一つ目は138条の記述で、以下のように記されている。

原文:あかをの道宗まうされさふらふ、一日のたしなみには、あさつとめにかかさじ、とたしなめ。一月のたしなみには、ちかきところ御開山の御座候ところへまゐるべし、とたしなめ。一年のたしなみには、御本寺へまゐるべし、とたしなむべし、と云々。これを圓如様きこしめしおよばれ、よくまうしたる、とおほせられさふらふ。
意訳:一日のこころがけとしては、朝のおつとめを欠かさぬこと、一月のこころがけとしては、親上人の御影を安置する処へ参ること、一年のこころがけとしては、本山へ参詣することであると道宗はいった。道宗のこの言を、実如の二男で、澄如の父であった円如がきいて、よくぞ申したとほめた。『蓮如上人御一代聞書』138条[16]

・225条(聴聞)

原文:一ツ事を聞きて、いつも珍らしく、はじめたるやうに、信の上にはあるべきなり。 ただめづらしきことをききたく思ふなり。ひとつことをいくたび聴間すとも、めづらしくはじめたるやうに、あるべきなり。道宗は、ただ一ツ御詞をいつも聴間申すが、はじめたるやうにありがたき申され候。
意訳:道宗は、一つのことを何度聴問しても、初聴間のように熱心にきき、そのたびごとに新しい信仰上の意を見出してはよろこび、有難く思ったということである。『蓮如上人御一代聞書』225-226条[17]

・289条善知識

原文:善知識の仰せなりとも、成るまじき なんど思ふは、大きなる あさましきことなり、なにたる事なりとも、仰せならば成るべき、と存ずべし。この凡夫の身が仏になるうへは、さて なるまじき、と存ずることあるべきか。然れば道宗申され候、近江の湖を一人してうめよ と仰せ候とも、畏りたると申すべく候、仰せにて候はば、ならぬ事あるべきか、と申され候由に候。
意訳:善知識の仰せは、絶対のものであって、これを疑うのはそこに凡夫の小我のはからいが入るからである。凡夫が仏になる以上、なるまじと思うことは、全くあり得ない。道宗がいうには、ひとりして琵琶湖をうめよと仰せられたと仮定しても、自分はいささかの疑心もなくその仰せをかしこみ、それに従うという。『蓮如上人御一代聞書』289条[17]

道宗心得二十一ヶ条

『蓮如御文』の記述はあくまで外から見た道宗のあり方であるが、道宗が自らの信心を率直に語った貴重な記録が行徳寺所蔵の『道宗心得二十一ヶ条』である。二十一ヶ条の冒頭には「文亀元年(1501年)十二月二十四日思立条」とあり、明応8年(1499年)3月に蓮如が死去してから3年目に、師匠をうしなった道宗が自らを規制するために書いたものと推定される[18]

二十一ヶ条の内、第一条から第三条までの三カ条が、二十一ヶ条の骨格をなすものと見られ、要約すると「後生の一大事ということ」「仏法を大切にするということ」「絶えず自己をひきやぶって前進を続けるということ」、この三つが道宗の信条であったと評されている[19]}。

二十一ヶ条の内容は蓮如の「心中をありのままに言わざる者は、まことに無宿善なり」との言葉に従った改悔そのものであるといえる[20]。各条目は蓮如の残した言葉と類似の表現が随所に見える[20]。『道宗心得二十一ヶ条』は全般に渡って信心為本・仏法為先の立場で記されており、世俗的問題については全く言及しないことも特徴である[21]。このために道宗の父母の名前さえ今に伝わっていないが、それ故にこそ道宗は真摯に信仰に向き合った人物として、現代に至るまで語り継がれているのだと評されている[21]

晩年

蓮如の第23子である願得寺実悟は本願寺史に関する詳細な記録を残しており、その『実悟記』第三十五条で道宗に言及されている。

越中州赤尾道宗と云は、蓮如上人御在世の時、一年に二度三度は上洛し、山科野村の御坊へ参りけり。遙の路をしげく上洛す。大儀たるべく、しげく上洛すべからずべからずなど仰ければ、畏候と中ても猶上洛す。奇特の仏法者都鄙かくれなかりし仁也。俗の名は弥七郎。……中略……道宗は永正十三年月日往生『実悟記』第35条[1]

この記録によると、一年に2,3度の山科本願寺参詣を繰り返した道宗は、晩年には「奇特の仏法者」として既に広く知られていたようである[1]。そして、上述の通りこの記録によって没年は永正13年(1516年)と確定している。

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後世の伝承での道宗

行徳寺・道善寺所蔵文書

江戸時代に入って以後、徐々に道宗にまつわる逸話が形成されていくが、その中核となるのは道宗による創建と伝えられる赤尾行徳寺と新屋道善寺となる。特に、道善寺所蔵の『天十物語』(天正十年)『新屋道場由来記』(寛政二年)『東赤尾村道宗一代記(※文末に「元禄2年8月10日これを書く」とあるが、本文中に「嘉永(実際には「嘉元」か)の記載があるため、実際にはもっと後代の編纂とみられる)』などは道宗についてのみならず、戦国期五箇山史研究の重要史料と位置付けられている[22]

脚注

参考文献

リンク

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