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遜嬪

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遜嬪(そんひん、? - 乾隆52年(1787年))は、嘉慶帝の皇子時代の格格(側室)。姓は沈佳氏(または沈氏)。正黄旗包衣の出身。父は熱河総管総管内務府大臣銜永和。嘉慶帝即位後に遜嬪に追封された。

生涯

沈佳氏の家族が八旗に編入された後の始祖は、瀋陽出身の漢人である沈奪であり、遜嬪(沈佳氏)は沈奪の八世孫にあたる。沈家は代々内務府の中級官僚を務めており、いわば内務府の中級官僚の家系であった。

乾隆47年(1782年)、沈佳氏は嘉親王(後の嘉慶帝)の側室(格格)に指名された。

乾隆51年(1786年)11月11日の巳の刻に、嘉親王の第五皇女を出産した。しかし、乾隆52年(1787年)にはすでに亡くなっていた。その後、乾隆60年(1795年)5月7日、当時8歳であった第五皇女も夭折した(嘉慶23年(1818年)3月、第五皇女は「慧安和碩公主」の称号を追贈された)。

嘉慶2年(1797年)4月22日、嘉慶帝は内閣に対して勅命を下し、潜邸(皇帝が即位前に住んでいた邸宅)時代の側福晋であった完顔氏を「恕妃」、格格であった関氏を「簡嬪」、沈氏を「遜嬪」に追封した。嘉慶帝は『孝淑皇后百日之期親臨殯所酹酒志哀』の中で、孝淑皇后の死去に伴い、これらの女性を妃嬪として追封したことに言及している。遜嬪の甥である福安(筆帖式、正黄旗通源佐領下)は、恕妃の兄慶保、簡嬪の弟愛保とともに、嘉慶帝に恩賜への感謝を述べる奏折を提出した。

嘉慶3年(1798年)6月18日、東直門外にある静安荘殯宮で、恕妃・簡嬪・遜嬪の追封の儀式が執り行われた。

嘉慶8年(1803年)10月17日、遜嬪の金棺は昌陵の妃園寝に安置された。

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一族

沈氏の家族は、内務府正黄旗の包衣に所属していた(内務府正黄旗に属する漢姓満洲旗人)。以下は、乾隆初年に編纂された『欽定八旗満洲氏族通譜』に記載された沈氏一族の仕官状況である。

先祖

始祖

  • 沈奪:「沈奪は正黄旗包衣人であり、瀋陽地方に世居していた。帰順した年は不明。その玄孫(五世孫)である秉功は、河南兵備道を務めた。四世孫の沈瑜(沈嵛、沈崳、沈喻、沈玉とも) は、内閣侍読学士兼佐領を務めた。……六世孫の常岱は郎中、雅爾岱も郎中兼佐領、查爾岱は三等侍衛として現職にある。」(『八旗満洲氏族通譜』巻78より)

天祖父(五世祖)

  • 秉功:河南兵備道を務めた。

高祖父(四世祖)

  • 沈瑜(沈嵛/沈崳/沈喻/沈玉、字:玉峯):内務府員外郎(養心殿造辦処の管理を担当、怡親王胤祥の指示による)。内閣侍読学士佐領。内務府正黄旗包衣第五参領第二旗鼓佐領を歴任。稽察内務府事務監察御史(『欽定台規』に記載)。画家としても活躍し、山水や楼閣を得意とした。

康熙50年(1711年):『御製避暑山荘三十六図』を描く(康熙51年、武英殿で満漢合璧の『御製避暑山荘三十六景詩』として刊行)。乾隆10年(1745年):『雍正御製円明園図詠』を描く。

曾祖父(曽祖父・三世祖)

  • 蘇伯:郎中兼佐領を務めた。内務府正黄旗包衣第四参領第一旗鼓佐領を歴任。在任中に死去(『欽定八旗通志』に記載)。

祖父(二世祖)とその同世代

  • 常岱:郎中として現職。
  • 雅爾岱:内務府郎中兼佐領を務める。内務府正黄旗包衣第四参領第一旗鼓佐領を歴任。内務府正黄旗漢軍進士・張百齢の父、張法良が郷試に合格した際、雅爾岱の佐領下に属していた(『欽定八旗通志』に記載)。
  • 查爾岱:三等侍衛として現職。
  • 卓爾岱:内務府員外郎兼佐領を務める。内務府正黄旗第五参領第三旗鼓佐領を歴任(『欽定八旗通志』に記載)。
  • 奇成額:筆帖式として現職。

父(直系)

  • 永和 - 佐領、内務府護軍統領。吉林打牲烏拉の総管(打牲烏拉総管衙門)。武備院卿。乾隆26年(1761年):総管内務府大臣の肩書を持ち、熱河総管を務めた。なお、前任者には内務府鑲黄旗満洲・伊齢阿の父・富貴がいる(『欽定熱河志』に記載)。総管内務府大臣を歴任。内務府鑲黄旗第四参領第一旗鼓佐領を務めた。以前の任官者には董殿邦・高斌などがいた(『欽定八旗通志』に記載)。

兄弟

  • 永忠 - 内務府員外郎兼佐領を務めた。内務府正黄旗第五参領第一旗鼓佐領を歴任。在職中に死去(『欽定八旗通志』に記載)。
  • 永安 - 筆帖式として現職。
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伝記資料

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