トップQs
タイムライン
チャット
視点
那須ゴルフ倶楽部
ウィキペディアから
Remove ads
那須ゴルフ倶楽部(なすゴルフくらぶ)は、栃木県那須郡那須町にあるゴルフ場である。
Remove ads
概要
那須ゴルフ倶楽部は、那須連山の麓、標高900メートルに広がる、戦前に造られた歴史のあるゴルフ場である。那須高原の発展は、1926年(大正15年)に建設された御用邸に始まるといわれている[1]。また、那須ゴルフ倶楽部は、「軽井沢ゴルフ倶楽部」とよく比較される、軽井沢ゴルフ倶楽部は「東京ゴルフ倶楽部」のメンバーが多く、那須ゴルフ倶楽部は「霞ヶ関カンツリー倶楽部」のメンバーが多いことから、霞ヶ関カンツリー倶楽部の別荘といわれた[1]。そうしたことから、那須にもゴルフ場を造ろうとの動きが出始めたのが、1933年(昭和8年)で、それに答えたのが藤田欽哉だった[1]。
1935年(昭和10年)7月、コースの工事に先立って、クラブハウスとロッジが開設された。1936年(昭和11年)7月5日、9ホール(現・インコース)が開場、翌年の1937年(昭和12年)7月10日、9ホール(現・アウトコース)が開場、計18ホールのゴルフ場が開場した。コース設計を行ったのは井上誠一で、戦前ということで着工以来3年の歳月を要した、自然の地形を生かした山岳コースである。その後、戦争が激しさを増し、1941年(昭和16年)4月、「東京ゴルフ倶楽部朝霞コース」は陸軍戦車隊用地として、「武蔵野カンツリー倶楽部六実コース」と「武蔵野カンツリー倶楽部藤ヶ谷コース」は陸軍飛行隊に、1942年(昭和17年)には「川奈ホテルゴルフコース」も戦傷者の療養施設として徴用された。那須ゴルフ倶楽部も日本ゴルフ協会からの自粛通達があり、社名を「那須山園株式会社」と名称変更された。そして、コースは陸軍の耕作修練場に徴用された[2][3]。
全コースが再開されたのは、1949年(昭和24年)で、それまで放置されていた。1951年(昭和26年)、旧社名の「株式会社那須ゴルフ倶楽部」に戻り、更に1959年(昭和34年)8月、社団法人の認可を受けた。1957年(昭和32年)9月、那須生え抜きの小針春芳プロが、第22回 日本オープンゴルフ選手権競技大会で優勝した。コースの特徴は、ハザードのバンカー18個と池1つと少ないが、那須地方特有の強い風が吹くことである。名物ホールとしては、インコースの14番で、距離の短いミドルコースだが、正面には那須岳を望み、フェアウエイの中間にはセセラギが横断する素晴らしい景観のホールである[2][3]。
Remove ads
所在地
〒325-0301 栃木県那須郡那須町大字湯本212番地
コース情報
ギャラリー
- コース - 「那須ゴルフ倶楽部」、コース俯瞰図
- ハウス - 「那須ゴルフ倶楽部」、施設概要
交通アクセス
鉄道
道路
エピソード
- 霞ヶ関カンツリー倶楽部のプロゴルファーは、暑い夏の期間、那須に出かけ那須ゴルフ倶楽部で練習し、冬の寒い期間、那須ゴルフ倶楽部の小針春芳プロは、霞ヶ関カンツリー倶楽部で練習した[7]。
- 那須ゴルフ倶楽部のコース設計は、井上誠一と藤田欣哉の共同設計といわれているが、事実上は井上誠一のソロデザイン第1号である[7]。
- 山岳コースである山野の20万坪の用地は、高低差が大きく、モッコとツルハシだけで、地形の高いところから工事を開始して、余った土量を下に落としながら工事を進めた。約30メートルの打ち下ろしホールの16番ホール、パー3はその名残である[7]。
- 作家の獅子文六は、那須ゴルフ倶楽部が好きだった、「ゴルフだけならどこでもやれる。泊りがけでこの山奥にやってくるのは、クラブライフを楽しみたいからだ」と書いている[7]。
- 那須ゴルフ倶楽部は、コースが出来上がる前にクラブハウスとロッジを建てた、ゴルフよりゴルフライフなのである。戦前は、奥さんたちが家族会員になって、クラブハウスでお喋りを楽しんだ。現在でも、メンバーラウンジは夜10時でも賑わっている[7]。
- 古くは、夏季に、1番ホールと9番ホールの間で、メンバーの子ども達の運動会を行ったという記録が残っている[7]。
Remove ads
脚注
関連文献
関連項目
外部リンク
Wikiwand - on
Seamless Wikipedia browsing. On steroids.
Remove ads