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重岡信治郎

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重岡信治郎
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重岡 信治郎(しげおか のぶじろう 1879年明治12年)5月10日 - 1971年昭和46年)1月16日)は、日本の海軍軍人井出謙治らに続き、潜水艦の拡充に尽力した[1]海軍中将である。 なお"重岡信次郎"とする資料もある。

概要 重岡 信治郎, 生誕 ...

略歴

愛媛県出身。松山中学から1898年(明治31年)海軍兵学校29期として入校。留年し1902年(明治35年)30期として卒業した。兵学校の卒業成績が昇進に大きく影響した海軍で、席次が187名中156番の重岡は中将まで昇進した[2]

尉官時代は「磐手」、「比叡」、「厳島」、「韓崎丸」乗組等を経て第一潜水艇隊付、同艇長心得、同艇長、第二潜水艇隊艇長と実務経験を重ね、以後もほぼ一貫して潜水艦畑を歩む。

佐官時代は仏国出張を経て潜水艇の艤装委員を務めたほか、第四潜水戦隊参謀、潜水学校教頭となる。大佐昇進後練習艦隊所属の「出雲艦長となり、同期の「八雲」艦長・鹿江三郎大佐とともに練習航海[3]の成功に貢献した。「由良」艦長の後、潜水学校校長を務め少将に昇進。第二潜水戦隊司令官、軍令部出仕を経て艦政本部第五部長、再度の潜水学校校長を務め1931年(昭和6年)12月1日中将に進み、1932年(昭和7年)3月31日予備役編入となった。

1947年(昭和22年)11月28日、公職追放仮指定を受けた[4]

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親族

女婿の馬野光(海兵52期)は、美幌海軍航空隊飛行隊長在任中に殉職した[5]

栄典

位階
勲章等

脚注

参考文献

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