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野口裕樹夫

山梨県出身のプロゴルファー ウィキペディアから

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野口 裕樹夫(のぐち ゆきお、1950年4月27日 - )は山梨県出身のプロゴルファー

概要 野口 裕樹夫Yukio NOGUCHI, 基本情報 ...

旧名は「野口 茂[1] [2] [3]

来歴

要約
視点

山中湖村立山中湖中学校[4]時代はスピードスケートの選手で、15歳の頃からゴルフを始め、卒業後すぐにプロの手ほどきを受けた[5]

1971年にプロ入りし[6]1976年のヤングライオンズで入江勉高井吉春寺田寿と並んでの7位タイ[7]、同年の関東オープン13位[5]が主な成績であった。

1977年阿蘇ナショナルパークオープンでは初日を金井清一藤井義将尾崎将司と並んでの2位タイ[8]スタートし、2日目には新井規矩雄と並んでの首位タイに浮上[9]。最終日には3アンダー213で金井・新井らベテラン勢に競り勝ち、最終ホールをバーディで決めてプロ入り初優勝[1] [10]、賞金150万円と副賞の子牛を獲得[5]

1979年はツアー開幕戦となった静岡オープンでは最終日に矢部昭と一騎打ちを演じ、優勝争いは最後までもつれたが、17番で6mを沈めバーディとした矢部が一歩抜け出して優勝している[2]

1985年には日本プロで初日首位[11]に立ち、周囲を驚かせる[3]海老原清治腰痛のため、大会前日に出場を辞退し、大会本部で当時シード権があった前年賞金ランク40位より下の選手をあたったが、連絡のつかない選手を飛ばして、52位の野口が夕方になってようやくつかまった[3]。野口は自宅の静岡県浜松市から会場近くの茨城県鹿嶋市に夜11時過ぎに到着し、当日はぶっつけ本番でハウスキャディに攻め方を全部教わり、6アンダー[11]67をマークして飛び出した[3]

1990年には賞金ランク60位に入り40歳で初のシード入りし、1992年にはグローイングツアーで2勝して賞金ランキング1位になりシード権を取り戻した[12]

1991年ヨネックスオープン広島では初日にショット、パットとも好調で後半29の好スコアを出すなど8バーディ、2ボギーで回り、6アンダー65で首位に立った[13]。2日目には雷雨で1時間の中断があった中、スコアを3つ伸ばし、通算9アンダー133で単独首位を守った[14]。3日目にはスコアを3つ落として4位タイに後退し[15]、最終日には中嶋常幸・尾崎将・牧野裕横島由一と並んでの9位タイ[16]に入った。

2000年からはシニア入りし、同年の日本シニアオープンでは高橋勝成と2打差の2位に入る[17]。3年目の2002年にはアデランスウェルネスオープンで2日目にベストスコアの66をマークして首位に立つと、2位に3打差を付けて悠々逃げ切り勝ちし、念願のシニアツアー初優勝を飾った[12]。賞金ランクでは3年連続賞金王の高橋には及ばなかったものの、2位に入って気を吐いた[12]

2004年はシード落ちして、予選会突破からの出場であったが、シニアツアー競技全試合に出場、PPTリボーネストと日本シニアオープンで8位タイなど堅実な成績を残し、賞金ランク16位でシード復活を果たした[18]

2005年は再びシード落ちしたが、後援競技のアサヒ緑健TVQシニア[19]、1日大会の全日本シニアプロアマ[20]で優勝する。

2006年にはアデランスシニアで4位タイ、ファンケルクラシック8位と気を吐き、賞金ランクも前年の55位から14位に大躍進し、見事シード復活を果たした[21]

2009年日本オープン[22]を最後にレギュラーツアーから引退し、2018年には静岡プログランドシニアで藤間達雄今井昌雪を抑えて優勝する[23] [24]

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主な優勝

レギュラー
  • 1977年 - 阿蘇ナショナルパークオープン
  • 1988年 - KPGAトーナメント(春)
  • 1992年 - 後楽園カップ(第3回・第5回)
  • 1995年 - 栃木オープン
  • 1997年 - 後楽園カップ(第3回)
シニア
  • 2000年 - 杉原輝雄シニアクラシック
  • 2002年 - アデランスウエルネスオープン
  • 2005年 - アサヒ緑健TVQシニア、全日本シニアプロアマ

脚注

外部リンク

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