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野田持忠
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野田 持忠(のだ もちただ)は、室町時代の武将。足利氏(古河公方)の家臣。関東野田氏当主。下総国古河城主、のちに下野国野田城主。
略歴
関東野田氏は木戸氏と共に鎌倉府・奉行衆の宿老の家系[1] [2]。
永享12年(1440年)、結城合戦の際に、結城方として古河城に立て籠った城主「野田右馬助」が「野田持忠」と考えられている[1] [4]。『鎌倉大草紙』・『永享記』によれば、古河城主・野田右馬助は家臣の矢部大炊助らと共に城に立て籠もるが、翌年、結城城陥落後に上杉清方の来襲を受け落城。野田右馬助は逃走し、矢部大炊助は戦死した[5]。
永享10年(1438年)の永享の乱で鎌倉府は一旦断絶したが、新しい鎌倉公方・足利成氏の許で再興し、持忠もその家臣として活動を始める。宝徳3年(1451年)、持忠は「野田持保」の知行に強入部している[6] [1]。これは成氏派が自力での失地回復を目指した活動の一つであるが、室町幕府から批判されることになる[7]。 享徳4年(1455年)、享徳の乱のため成氏が古河城に入り「古河公方」となると、下野の野田城(足利市)に入り、上杉氏に対抗した[1]。
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脚注
参考文献
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