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長尾当長

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長尾当長
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長尾 当長[注 1](ながお まさなが)は、戦国時代武将足利長尾氏当主。永禄4年(1561年)12月以降、景長と名乗った[1]

概要 凡例長尾 当長 / 長尾 景長, 時代 ...

通称は新五郎[2]官職但馬守[2]

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略歴

大永7年(1527年)、長尾憲長の二男として誕生[3]

父・長尾憲長の跡を受け家督を継ぐ。はじめ、関東管領上杉憲當(憲政)[注 2]から偏諱を受け當長(当長)と名乗った[1]。関東管領家の家宰として活躍して[要出典]足利藤氏元服の際、但馬守となった[1]。だが、憲当が、後北条氏に圧迫されるように関東から撤退すると、関東管領家家宰職も事実上消滅し、当長も北条氏康に降る。

永禄3年(1560年)にいったん出家して「禅昌」と名乗るが、同年11月には再び還俗して「當長(当長)」に名を戻す。[要出典]

同4年(1561年)3月、上杉憲政が家督や関東管領職等を長尾景虎(上杉謙信)に譲ると、景虎より偏諱を受けて、祖父・長尾景長と同じく「景長」を名乗ったと推測される[1]。やがて上杉政虎と改名した景虎が関東出兵に乗り出すと、同じ長尾氏としてこれを支援する。

永禄5年(1562年)2月、上杉(謙信)勢が赤井氏館林城を落とすと、同月末、景長(当長)はこの城を預けられた[4]。また、赤井氏の支配領域であった上野国邑楽郡は、景長と小泉城城主・富岡重朝に二分された[5]。赤井氏の配下にあった土豪も長尾氏に吸収された[5]

政虎が後北条氏を圧迫し、後に越相同盟まで結ぶようになると、上杉・北条両家の軍事的・外交的な折衝に当たった[要出典]

永禄12年(1569年)7月15日、死去[6][7]。43歳[1]。法名は心通禅空大居士[2][1]。心通院(足利市)に宝篋印塔がある[8][6]

景長の死後は婿養子・顕長が跡を継いだ[7]館林城は同じく婿であった広田直繁に与えられたようである。また、男子に北条氏政から偏諱を受けたとされる長尾政長読みは当長と同じ[要出典])がいたとされるが、顕長が跡を継いでいることから早世したものと考えられる。

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脚注

参考文献

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