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長谷川正長
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長谷川 正長(はせがわ まさなが)は、戦国時代の武将。駿河国小川城主、徳一色(田中)城主長谷川氏当主。通称は藤九郎、官途名は紀伊守。
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略歴
今川義元に仕え、桶狭間の戦いで義元と父元長が戦死すると、続けて今川氏真に仕えた。
しかし永禄13年(1570年)に甲斐国の武田信玄が駿河に侵攻し、今川氏の支配が崩壊すると、本拠地を放棄して抵抗する今川氏同様に遠江国へ逃れ、三河国から遠江に進出してきた徳川家康に仕えるようになった。
なお、長谷川氏の嫡流は正長ではなく、元長の子の能長(次郎左衛門)が宗家の当主であったと近年の研究では考えられている(藤枝の鬼岩寺の大檀那として記録が残る)。この能長は武田信玄の侵攻直後の永禄12年(1569年)に武田軍に内通して所領を安堵された。これに同調しなかった一族の藤九郎は徳一色城(田中城)に籠城したために攻城戦になったとされるが、この藤九郎が正長のことと考えられている[1]。
元亀3年(1572年)12月22日の三方ヶ原の戦いに参加し、徳川軍が武田軍に大敗する中、奮戦して討死にした。享年37。墓所は焼津市の信香院。
次男の伊兵衛宣次は天正10年(1582年)から家康の小姓を務め、やがて別家を興し旗本となった。この系統の子孫に、火付盗賊改方の長谷川宣以がいる。
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脚注
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