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随州市

中国湖北省の地級市 ウィキペディアから

随州市
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随州市(ずいしゅう-し)は、中華人民共和国湖北省に位置する地級市炎帝神農の生誕地とされ、また隋朝を開いた楊堅がかつて刺史に任じられたことで、隋朝の名称の由来となった地でもある。なお王朝名は之繞を不祥としたために「随」を「隋」に改められている。

概要 中華人民共和国 湖北省 随州市, 簡体字 ...
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地理

湖北省の北部、長江淮河の項交流地帯に位置し、孝感市荊門市襄陽市河南省と接する。東西約130キロメートル、南北約105キロメートル、山地丘陵地が大部分を占める地勢である。

歴史

夏殷代は厲国(頼とも)が、周代には厲、(曽とも)、の3国が位置していた。前569年により厲が、前505年には唐、戦国末には随が滅亡し、随県が設置された。

前221年秦朝による中国統一事業が達成されると、中央集権体制の下、郡県制が施行され、現在の随州地区は南陽郡随県が設置され、南北朝時代まで随県の名称が使用された。

535年大統元年)、西魏により随県は随州と改称、この名称は清末まで使用されることとなる。

1912年民国元年)、中華民国が建国されると州制廃止に伴い随州は随県と改称、州署は県知事公署と改編され湖北省の管轄とされた。1914年(民国3年)、北京政府による道制施行に伴い江漢道の管轄とされ、県議会や参事会による地方自治制度の整備が進められた。1927年南京国民政府により県知事公署も県政府と、県知事は県長とそれぞれ改称された。1931年(民国20年)、督察区制度の施行に伴い、湖北省第五行政督察区(1936年に第3区に変更)の所管とされ、専員公署の商材地とされた。

また1927年から1929年にかけて中国共産党はこの地で武装蜂起、祝林、青苔、呉山3区の革命委員会を設置、1931年4月から1932年6月にかけては桐柏山、大洪山地区に5つのソビエト政府を樹立、また日中戦争中の1940年6月から1944年9月にかけては洪山県随南県信随県随北県応随県随中県随陽県随棗県の各愛国民主政府を樹立している。

国共内戦末期の1949年5月、随北、随南両県は随県と合併、随棗県応随県の旧随県管轄地域も随県に編入され孝感行政区の、洪山県は襄陽行政区の管轄とされ、中華人民共和国建国初期に沿襲された。1952年、随県は襄陽行地区に移管、洪山県は廃止となりその管轄区域の大部分は随県に編入された。

1979年11月26日、国務院は県級市の随州市の設置を決定、翌年7月1日に成立している。1983年8月19日、随県の随州市編入が実行され随州市は省轄県級市に、更に1994年11月6日に省直轄市に改編され現在に至る。

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行政区画

1市轄区・1県級市・1県を管轄下に置く。

さらに見る 随州市の地図 ...

年表

この節の出典[1][2]

交通

鉄道

道路

  • 漢十高速道路

脚注

外部リンク

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