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隗状

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隗 状(かい じょう、生没年不詳)は、中国戦国時代末期の秦朝)の政治家司馬遷史記』では隗林と記されるが[1][2]、複数の考古資料から誤記であるとみなされている[3]

秦王政(のちの始皇帝)に仕え、王綰と同時期に丞相の地位にあった[3]。出土した竹簡群との銘文によると、丞相の変遷は「啓(右丞相)と顛(左丞相)」、その後「啓と隗状」、その後「隗状と王綰」が務めていたことが確認される。

経歴

王綰と共に度量衡の統一事業を担った。

始皇28年(紀元前219年)、始皇帝の東方巡行に従い、瑯琊(現在の山東省青島市黄島区)において瑯琊台刻石が設置された際、列侯武城侯王離・列侯通武侯王賁・倫侯建成侯趙亥・倫侯昌武侯成(姓は不明)・倫侯武信侯馮毋択・丞相王綰・卿李斯・卿王戊五大夫趙嬰・五大夫楊樛らと瑯琊台刻石に名を列せられた[1][2]

脚注

参考文献

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