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青木泰二郎

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青木 泰二郎(あおき たいじろう、生年不詳 - 1962年昭和37年〉11月23日[1])は、日本海軍軍人海軍大佐ミッドウェー海戦で撃沈された航空母艦赤城艦長として知られる。

概要 青木 泰二郎 Taijiro Aoki, 生誕 ...

概要

海軍兵学校41期)を1913年大正2年)12月に卒業。同期生に草鹿龍之介木村昌福田中頼三らがいる。1937年(昭和12年)12月、大佐へ昇進。水上機母艦・「瑞穂」艦長、横須賀海軍航空隊予科練部長を経て、土浦海軍航空隊司令として太平洋戦争を迎える。

1942年(昭和17年)4月25日に「赤城」艦長に就任。しかし、就任2ヶ月に満たない同年6月5日、ミッドウェー海戦において「赤城」は被弾・炎上。青木は沈没まで指揮をとり、乗組員の退艦を図った。青木は「赤城」と最期を共にするつもりであったが、乗組員たちに「赤城」から無理矢理引きずり降ろされ生還する。帰国後7月14日付けで予備役に編入されたが、召集を受け海南警備府附となる。その後は海口海軍航空隊佐世保海軍航空隊元山海軍航空隊の各司令を勤めた。元山空で終戦を迎えた時、青木は内地に飛行機で戻り、残された隊員たちはソ連軍の捕虜となりシベリアに抑留された。このことから青木の行動を「敵前逃亡」と非難する元部下もいる[2]。その後、公職追放となった[3]。戦後は埼玉の幼稚園長として勤務した。

筑波大学教授・青木彰(海兵75期)は息子[4]。その妻は女優の佐々木すみ江

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評価

青木の行動は、戦後の研究者の間でも賛否が分かれている。沢地久枝はミッドウェー海戦での生還行動について「艦長としての最後まで戦おうとした意志が見られ、その決断は部下による救出行動と相まって、単純な臆病とは言えない複雑な人間ドラマを示している」と論じている[5]。一方、渡辺洋二は終戦直前の元山海軍航空隊司令としての撤退行動を「軍人としての責任放棄」と厳しく批判している[6]

脚注

参考文献

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