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韋陟

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韋 陟(い ちょく、697年 - 761年)は、唐代官僚文人は殷卿。本貫京兆府万年県[1][2]

経歴

要約
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韋安石の子として生まれた。神龍2年(706年)、温王府東閤祭酒に任じられ、朝散大夫の位を加えられた。太常寺丞に累進した。文才があり、隷書を得意とし、文人・秀才たちがかれの邸に遊びに来た。開元2年(714年)、父が死去すると、韋陟は辞職して喪に服し、礼の規定を超える8年のあいだ門を閉じて外出しなかった。洛陽県令を経て、吏部郎中に転じた。開元22年(734年)、張九齢中書令となると、韋陟は召し出されて中書舎人となり、孫逖・梁渉とともに玄宗の発出する文章をつかさどった。のちに礼部侍郎となった[3][4]

韋陟は李林甫に憎まれて、襄陽郡太守として出され、山南東道採訪使を兼ねた。さらに陳留採訪使に転じ、銀青光禄大夫の位を加えられた。天宝年間、郇国公の封を世襲した。親族の罪に連座して鍾離郡太守に左遷され、さらに義陽郡太守に転じた。ほどなく河東郡太守に移され、河東道採訪使をつとめた[5][4]

天宝12載(753年)、韋陟は考査のため入朝し、華清宮にあった。右相の楊国忠は韋陟が宰相に昇ることを恐れて、呉象之に韋陟を告発するようそそのかした。呉象之は韋陟が御史中丞の吉温と結託して、朝廷を陥れようと図ったと誣告した。韋陟は罪に問われて桂嶺県尉に左遷され、赴任しないうちに、さらに平楽県尉に左遷された[5][6]

安禄山が反乱を起こし、洛陽が陥落すると、韋陟の弟の韋斌が反乱軍に捕らえられた。楊国忠は韋陟が反乱軍と通じている証拠をでっちあげようとし、ひそかに吏卒に命じて韋陟の居所を伺わせ、韋陟を憂死させようとした。平楽郡の豪傑が韋陟に亡命を勧めたが、韋陟は頑なに動こうとしなかった[7][8]

至徳元載(756年)、粛宗霊武で即位すると、韋陟は呉郡太守として起用され、江南東道採訪使を兼ねた。永王李璘が江南東道で起兵すると、韋陟は命を受けて招諭にあたった。御史大夫に任じられ、江南東道節度使を兼ねた。季広琛が永王李璘に従って長江を下ったものの、罪を恐れて出奔し、行き場を見失っていた。そこで韋陟は季広琛を丹陽郡太守・兼御史中丞・縁江防禦使に任ずるよう上表し、かれを寝返らせた。韋陟は淮南節度使高適淮西節度使来瑱らとともに安陸郡にいたり、盟を誓った[9][8]

永王李璘が敗れると、韋陟は鳳翔府に赴くよう勅命を受けた。韋陟は和州を訪れて季広琛に私馬数頭を与えて安堵させた。韋陟は鳳翔府を訪れて、粛宗の謁見を受け、御史大夫に任じられた。拾遺の杜甫房琯を弁護する上表をおこなうと、粛宗は韋陟や崔光遠顔真卿に命じて杜甫を取り調べさせた。韋陟は「杜甫が房琯を論じたことは、左遷されたといえども、諫臣の大体を失していません」と上奏した。粛宗はこのため韋陟を疎んじるようになった。韋陟は御史大夫を退任し、吏部尚書に任じられた。一族の人が墓の柏を切り、韋陟はこれを禁止できなかった罪で、絳州刺史として出された。乾元2年(759年)、入朝して太常寺卿となった。呂諲の推薦を受けて、礼部尚書・東都留守となり、判尚書省事をつとめ、東都畿観察処置等使を兼ねた。史思明の反乱軍が洛陽に迫ると、韋陟は洛陽の属官たちを率いて関中に入り、兵に命じて陝州を守らせた。乾元3年(760年)、東都留守のまま、吏部尚書に転じた。上元元年(同年)8月、虢州で死去した。享年は65。荊州大都督の位を追贈された。は忠孝といった[10][11]

子に韋允があり、吏部員外郎・潁州刺史となった[12][13]

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脚注

伝記資料

参考文献

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