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韓休
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経歴
洛州司功参軍の韓大智の子として生まれた。若くして作詞の学問に通じた。はじめ制挙に応じ、桃林県丞に任じられた。さらに賢良に挙げられた。玄宗が皇太子であったとき、国政について策問して、韓休の対策は校書郎の趙冬曦と並んで乙第とされ、左補闕に抜擢された。ほどなく韓休は判主爵員外郎をつとめた。中書舎人・礼部侍郎を歴任し、知制誥を兼ね、虢州刺史として出向した。虢州の地は長安と洛陽の中間にあり、皇帝が長安か洛陽かにいるとき、いずれでも近州として、馬の飼料となる牧草を税として負担することになっていた。韓休は他の州と負担が均等になるよう求める上奏をおこない、中書令の張説と争った。1年あまりして、母が死去すると、韓休は職を去って喪に服した。喪が明けると、韓休は知制誥のまま工部侍郎に任じられ、尚書右丞に転じた[4][3]。
開元21年(733年)、侍中の裴光庭が死去すると、韓休は蕭嵩の推挙を受けて、黄門侍郎・同中書門下平章事(宰相)に任じられた。まもなく万年県尉の李美玉が罪に問われると、玄宗は嶺南に流刑にしようとした。韓休は李美玉は地位の低い小悪党にすぎず、金吾大将軍の程伯献をまず出すべきだといって争った。玄宗は最初聞き入れなかったが、ついに折れてかれの上奏に従った[5][6]。
この年の夏、韓休は銀青光禄大夫の位を加えられた。12月、工部尚書に転じ、知政事(宰相)を罷免された。開元24年(736年)、太子少師に転じ、宜陽県子に封じられた[7][8]。開元28年(740年)5月乙未、死去した[9]。享年は68。揚州大都督の位を追贈された。諡は文忠といった。宝応元年(762年)、重ねて太子太師の位を贈られた[7][8]。
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子女
脚注
伝記資料
参考文献
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