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飛行第11戦隊 (日本軍)

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飛行第11戦隊(ひこうだいじゅういちせんたい、飛行第十一戰隊)は、大日本帝国陸軍飛行戦隊の1つ。通称号燕第八三一一部隊軍隊符号11F

概要 創設, 廃止 ...

垂直尾翼に稲妻を模したマークを描いていたため「稲妻部隊」の通称もあった。

概要

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垂直尾翼に稲妻を描いた飛行第11戦隊の四式戦闘機

経歴

前身は1932年6月に飛行第1、第3、第4連隊から各1個中隊を抽出し編成された飛行第11大隊である[1]関東軍飛行隊隷下としてハルビン、奉天に駐留。7月6日には、独立飛行第10中隊(花沢友男大尉)を編入し第4中隊とした[2]。1933年、熱河作戦にて2個中隊が綏中に派遣され、地上戦直協に従事。1935年12月、関東軍飛行集団成立と同時に飛行第11連隊に改編。ただし、4個中隊であることは変わらなかった。のち、第12飛行団(長:東栄治少将)隷下となる。

1937年6月、乾岔子島事件にて連隊主力が北安飛行場に前進するも、出動直前で中止命令が発せられ、間もなく停戦となる[1]。9月末、第16戦隊に代わって偵察1個中隊と第2中隊からなる臨時飛行隊(長:田坂国三少佐)が北支に派遣されるも空戦の機会なく、地上直協に終始[1]。同年12月20日、ハルビンに帰還。

1939年(昭和14年)5月23日、第12飛行団への出動命令が下され、連隊本部および第1、第3中隊(約20機)が出動。29日には第4中隊もハイラルに派遣された[3]。6月19日夜に第2飛行集団に再度派遣命令が下ると、23日、飛行団司令部と11戦隊第2、第4中隊が採塩所飛行場に前進、同日より戦闘に入る[4]

1939年(昭和13年)8月31日、ハルビンにて戦隊と改称。翌日9月1日、第4中隊が指揮下を離れ、飛行第1戦隊第3中隊に改編される。

1942年4月8日、第1中隊などから部隊員の一部が抽出され教導飛行第204戦隊が編成される。

フィリピンの戦いで鹵獲された飛行第11戦隊の四式戦闘機はアメリカに運ばれ、1946年4月2日から5月10日にかけて、ペンシルベニア州のミドルタウン航空兵站部で各国の戦闘機を比較する試験に用いられた。

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所属者

歴代部隊長

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主な所属隊員

  • 山口文一:第1中隊、1942.3-4.8
  • 金井守告:第1中隊、 - 1942.12
  • 瀧山和:第2中隊、-1941?
  • 加藤正治:第4中隊、1936.3 - 1939.9.1

脚注

参考文献

関連項目

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